猫又シリーズのスピンオフです。 烏天狗が銀時で、侍が高杉です。 千里鳥 出会った瞬間、白の翼に電撃が疾ったかのようだった。こいつなのだと確信した。 一度も欲したことはない。必要性を感じたこともない。それどころか猫又を酔狂な妖怪だと笑っていた。しかしそれは理屈ではなかったのだ。必要か否かなどというそんな次元の話でも、全く。 自分の中の知らない誰かが告げていた。この人間は俺の特別なのだと。 恋ではない。情でもない。ただ純粋に。強く、その魂に惹かれた。 人間が呼ぶ運命というものは、もしかしたらこういうものをいうのかもしれない。 初めて覚える感覚に羽根が震えた。 「お前さん、名前は?」 「――ねぇよ」 「ふうん」 朧月に桜の映える夜だった。ここの桜並木は千年前から変わらない。千年前のことなど実はほとんど忘れているけれど、たぶんそうだった気がする。 戯れに問いかけてみただけだったのか、烏天狗の返事に侍は大して興味なさそうに相槌を打った。花の舞い降る暗く輝く天を仰ぎ、目を細めて笑う。その瞳にこの世界はいったいどんな風に映っているのだろう。きっと大層美しいのだ。 「異人か? どこから来た」 「いんや、この国の生まれ。この頭は気にすんな自前だから」 「いや頭っつーか……まぁいいか、ある意味じゃ頭だし」 侍は奇妙な物言いをしたが一人で勝手に納得したらしい。それから二言三言他愛のない会話をすると、手にしていた杯を一口で飲み干して歩き出す。 「そろそろ行くか。楽しい夜桜見物だったよ。じゃあな」 「あ……」 行ってしまう。引き止めるかわりに無意識に背中の不可視の羽根を広げた。二人の間を薄紅の桜が埋める。姿を消してついていってみようか。けれど一瞬あの猫又が頭をよぎって躊躇った。あんなのは酔狂な妖怪がすることだ。途方もなく面倒で馬鹿げている、そんなことはちゃんと知っている。知っているのに。 「一緒に来るか?」 まるで見透かしたように、振り返って侍は口の端を持ち上げた。まるで背中を押すように風がざあと流れる。白い羽根が桜と一緒に薄闇色の空を舞った。知らないうちに足は彼を追いかけていた。 この夜こそがとこしえの様に長い、そして花のように短い、彼の旅の始まりだった。 千年以上生きてやっと、初めて見つけた、生きる理由。 侍は旅をしていた。この島国を踏み荒らす異人を打ち払い、異人に服従する弱体化した国を立て直すための旅だった。途中色々な人間にも会い、烏天狗は彼らの会話から侍の名を知った。しかし侍はあの夜から一度として自分から烏天狗に名を教えることはなく、また逆に二度と彼の名を問うこともしなかった。 そのかわりに一度だけ、侍は彼に名前について尋ねたことがある。 「白いの、お前はなんで名前がねえの?」 聞いたことに深い意味はおそらくなかったのだろう。侍はよく退屈しのぎに興味のないことを話題にすることがあった。あるいはそれが侍なりの交流手段であったのかもしれない。名を呼び合わぬだけで、侍は決して烏天狗を邪険にするわけでもなくむしろこうして暇さえあれば戯れのように言葉を投げかけてくれた。 「なんでって、ないからとしか言いようがねえな」 「ふうん」 侍は不思議そうに彼を見上げた。そういう顔をすると侍は少し幼く見えて、とてもおもしろい。侍を怖い男だと言う人間もいたが、烏天狗には少しもそうは思えなかった。ただ恐ろしく、純粋なだけなのだ。そういうところはあの猫又と侍は似ているかもしれない。 「それって不便じゃねえの?」 はたと考える。自分はこの千余年、名がなくて不便を感じたことがあっただろうか。彼の記憶の限りでは、おそらくそんなことはただの一度もなかったように思われた。 「……ねえな」 「一度も?」 「無え」 本当にないのだ。それは彼の生にとって必要のないものだった。誰も彼の名を尋ねないし、彼もまた名乗る相手を持たなかったのだから。そしてそれは単純に人間と妖怪という種族の差でしかない。 「じゃあ、お前はずっと一人だったんだな」 侍の手が烏天狗の白い髪を触る。そんなことを言われたのも髪に触られたことも、千年以上生きているのに初めてだった。 (だって妖怪は人間と違って群れないんだよ) だから時折妖怪には、人間が眩しく見えるのかもしれない。お前は寂しかったのかと、自分自身に問うてみる。 人間はどうしてこんなに脆いのだろう。 流星の瞬くような時が過ぎ、旅の途中で侍は流行り病に蝕まれ死の淵にいた。向こう側へ渡るまであと幾ばくもないことが妖怪である烏天狗にはわかってしまった。侍からは甘い死の香りがする。 烏天狗は他のどの妖怪よりもたくさんの強力な妖術が使えると自負していたが、病を治す術までは知らなかった。なまじ力があったため怪我も少なく、大昔は違っていたかもしれないが今はもう薬草の種類すらほとんどわからない。 だから烏天狗にはどうすることもできなかった。人間が煎じた胡散臭い薬を飲ませて、食事や着替えを手伝うくらいしかできることはないのだ。大妖怪が聞いて呆れる。たった一人、人間を生かすこともできないなんて。 「なあ、お前もうどっか行けよ」 赤い咳をした後に、ふうと一つ息を吐いて何事もなかったように侍は言った。まるでいつもの世間話のような軽さで。 もう侍の周りには烏天狗しかいなかった。他の人間たちはこれがうつる病であることを知っていたから、ほとんど寄り付かなくなりいずれいずこかへと消えてしまった。同じイキモノなのになんてひどいのだろう。けれど侍は仕方ないさと笑うだけで恨み言の一つも零しはしなった。 だから烏天狗は、自分だけは侍の傍を離れまいと決めた。そうして毎日彼の看病をした。それなのに今侍は、烏天狗さえも自分から切り離してしまおうというのだ。 「誘ったのは俺だけど、もうついてこなくていい」 もうここより遠くへはいけないからと、四角く切り取られた狭い空を仰ぐ。侍の眼は遠くを見ていた。もう死期が近いことを侍は知っているのだ。 「何言ってんだよ。俺がいなくなったらお前、一人になるだろ」 「看取ってくれなくていいって言ってんだよ俺ぁ」 「……縁起でもないこと言うんじゃねえよ」 そんな言葉は聞きたくなかった。嘘でもいいからここにいろと、もうすぐ元気になるから待っていろと、そう言ってほしかった。それなのに侍はいつものように、けれどいつもより少し弱々しく笑って、烏天狗の白い髪に手を伸ばす。 こうして髪に触ってもらえるのも、もしかしたらこれが最後かもしれない。そう思ったら心臓が苦しくて、この千年で初めて知る痛みに戸惑いと恐怖を覚えた。もしも侍の時間をほんの僅かでも伸ばせるというのなら、この両翼を捨ててもいい。心の底からそう念じる。ああ、しかし妖怪は何に祈ればいいのだろう。 「俺はどこへも行かねえ。ここにいたいんだ」 「ばーか。鳥は枝でじっとするもんじゃねえ。もうどこへでも好きなところへ飛んでいけ」 羽根が震えた。あの日、侍と出会った夜と同じように。 「……っ、お前、見えて……!?」 烏天狗の変化は完璧のはずだった。背中に映えた白い羽根は妖怪の眼にすら映りはしないのだ。それが人間の、陰陽師ですらない男の眼に見えるはずはなかった。 それに人間が羽の生えた奇妙なイキモノを一緒に連れて行ってくれるはずがない。それどころか自分から手を伸ばして触れてくるなど。そんな人間は知らない。この千年、一度も会ったことはないのだ。ああでもあの陰陽師は猫又と当たり前のように手を繋いでいたのだったか。そんないろいろなことが烏天狗の頭を駆け抜けた。混乱している。 「嘘だ。人間に見えるはずなんて……」 「ああ、なんか知らねえけど俺にしか見えねえらしいな。はじめはそうと気づかなかったから変な奴だと思ったぜ」 てっきり頭がおかしいのかと、と付け加えて笑う。烏天狗もつられて笑った。笑うしかなかった。人間に見透かされたのは初めてだった。 久方ぶりに変化を解く。狭い部屋の中で大きな白い羽根を広げた。はらはらと何枚か舞い、侍は目を細めた。桜みたいだと呟く。 こんなことってあるだろうかと無性に泣きたい気持ちになった。そんな感傷はとっくの大昔に風化して消え去ったと思っていたのに。 決して悲しいわけではないのだ。けれどいったいこの感情につける名前が彼にはわからない。 「うん、俺ね、妖怪なの。もう千年くらい生きてるかな」 「そんなに生きてて名前がねえの?」 「妖怪はそれが普通なんだよ」 「ふうん。変だな」 「……そうかもしれないね」 侍は烏天狗の正体を知っても驚かず、いつもと変わらぬ相槌を打った。だからおかしな人間だと言ってやったら、妖怪でも人間でも構わない、お前はお前だろうと、当たり前のことのように言って笑った。 「そんなことより、今ここで名前決めろよ。前から思ってたんだが呼び名がないと不便だ。それに名乗らねえ奴に名乗る気もしねえ」 「お前、それで今まで名乗らなかったのかよ……」 「てめえこそ知ってるくせに一度も呼ばなかっただろ?」 強情なのはお互い様だろうと笑い、疲れたのか汚したままの布団に横になる。侍はどちらでも構わないと言ってくれたが、烏天狗はその二つのイキモノの差が悔しくてたまらなかった。どうして人間はたった数十年しか生きられない。どうしてすぐに、消えてしまう。どうして。 「少し寝る。俺が起きるまでに何か考えておけよ」 「あ……」 寝てはいけない。まだそちらへ行かないでくれ。 烏天狗は初めて自分から侍に手を伸ばした。少しでも力を込めれば簡単に壊れてしまいそうだったから、鳥が卵を温めるようにやさしく、人の子の手を握ってみた。ああ、このイキモノはなんて温かくて儚いのだろう。 「なあ、お前が名前つけてよ」 「俺の何百倍も生きているくせに甘えんな」 「お前のつけた名前がほしい」 妖怪にとってそれがどういう意味を持つのかは話さなかった。烏天狗自身そんなことはどうでもよかったのだ。ただ、一つきりでいいからこの先何百何千の時が過ぎても風化しない、そんな何かがほしかった。それが「寂しい」という感情なのだと彼は知らない。遠い昔に忘れてしまった。 「そうだな、じゃあ起きたら何か考えるか」 侍は眠そうな声で呟き、烏天狗の白い髪をまたそっと撫でた。 「約束だからな。絶対だぞ」 「わかったよ。起きたらな」 「その時は、お前も名乗れよ」 「ん……」 おやすみと、笑ってそっと目を閉じる。静かな眠りにつく。今眠ってばかりなのに次はいつ起きるだろうと考えずにはいられなかった。たとえ千里を翔ける羽根があろうと目指す場所がわからなければ飛んでいくことはできないのだ。もしもこの魂が器を離れて川の向こう、遥かなところへ羽根を広げたならば、追いつけるのはどれだけ先のことになるのか。 自分はこんなにも無力だったのだと初めて知った。わずかな思い出と、たくさんの感情を知った。 そしてやがて彼は旅を始める。 同じことをしようとして初めて猫又の強運と執念の力を思い知った。 今度はまあ随分と可愛らしいこと。雑踏の片隅で毬をついて遊ぶ少女に烏天狗は目を細めた。人間とは全く奇妙なイキモノだ。 「おや旦那、久しぶりじゃねェですか」 木の上から少女を見守っていた猫又が知己に気づいて声をかけてきた。二本の尻尾が機嫌よさそうにゆらりと振れる。 「ああ、ちょっと大陸のほうにいたんだ。さっき船で帰ったとこ」 「船で?」 猫又は不思議そうに聞き返した。何が言いたいのかわかって烏天狗は苦笑する。齢千年の大妖怪だって人間の科学に頼りたい時はあるのだ。 「あのなあ、俺は渡り鳥じゃねえの。羽根があってもさすがに自力で海越えると疲れるんだよ。 「そーですか。ところで何故その怠慢な大妖怪様が大陸へ? 旦那って本当に物好きですよねィ」 「うるせ」 それは向こうで出会った妖怪たちにもさんざん言われて聞き飽きた。それに物好きなのは猫又も同じだろう。 道を行き交う人々の何人かが不審そうに彼の顔を見て過ぎていく。彼ら人間からすれば白髪の怪しい男が一人で木に話しかけているように見えるのだろう。猫又ももうそこそこ長生きをしているくせに、いまだに変化はうまくならない。ちっとも妖力が上がらないのはきっと人間を追いかけてばかりいるからなのではないかと思う。それなら自分もいずれ猫又と同じようになるのだろうか。ふと考えて心の中で笑う。 「なあ猫又」 「なんですかィ」 「空は狭くなったってのに、世界は拡がる一方だよなぁ」 「は?」 「いや、なんでもねえ。じゃあ俺いくわ。しばらくは江戸……東京? にいるから、また会ったらよろしく」 「旦那?」 その時、あっと小さな悲鳴が上がった。振り返ると毬をついていた少女が転んで泣いていた。母親らしき女性がすぐに駆け寄ってきて抱き上げる。木の上では猫又がほっとした様子で微笑を浮かべていた。 烏天狗はひらりと手を振り、猫又と彼の愛する魂に背を向けた。人間たちの波に流されて気の向くままに歩いていく。ふと目を閉じてたくさんの人間の中に知った匂いを探してみたがやはりここにもいなかった。この世界でたった一つの魂を探すというのは、奇跡に頼るしかないような途方もない馬鹿げた話なのだ。酔狂か、物好きでないとやっていられないくらい。あるいは狂おしいまでの恋慕か。 「……ったく、また出会えるのはいつのことやら」 それでも探すことをやめない自分も大概狂っていると、名もなき一羽の烏天狗は苦笑する。 10/11/26 |