拍手ログ61-65


61.予兆(土+沖)

 机との間に無理に割り込んで、胡坐をかいた膝の上に無作法に乗っかる。仕事中なのは見てわかるだろうに全くの無視で、口と口をくっつけてみたり耳を甘噛みしてみたり、やりたい放題。それなのにこちらが服の中に手を差し入れようとすると嫌って身を捩るのだった。

「なあ、なんかあったの?」
「んー」

 イエスともノーともつかないぞんざいな返事をして鼻先を擦りつけてくる。これだけしておいて何も教えてくれる気も、させてくれる気もないらしかった。あるいは本当になんでもないただの気まぐれなのかもしれない。会話すらなく、ただじゃれついて甘えてくるその様はまるで気まぐれな猫のようだ。

 当分仕事をさせてもらえそうにないので諦めて好きにさせておく。体は貸し与えたままぼんやりと考えてみる。沖田について。

 沖田にとって言葉とは、もしかしたらそれほど大事なものではないのかもしれない。土方は沖田と接していてそんな風に感じることがある。なぜなら沖田が「本当のこと」を言葉にすることはとても稀だからだ。ごく僅かな例外だって無理に吐き出させたようなものだ。自分から話してくれたことはたぶんただの一度もない。むしろ沖田の操る言葉たちは常にそれら真実を霧の中に隠してしまうために用いられている。

 たとえば沖田は土方の女遊びを揶揄することはあっても「行かないで」と口にしたことはない。しかし同時に、「行っていい」と言われたこともただの一度もないのだ。それについて何度か問い質してみたこともあったが、いつだってはぐらかされて終わっている。本当はどう思っているのかは相変わらず謎のままだ。
 それどころか土方は、沖田が自分に対してどういう感情を抱いているのかすら知らなかった。「好き」と言われたことはあっても「愛している」と言われたことは一度もない。その「好き」がどういう類のものであるのか、それだってわからない。土方がそのことに思い悩んでいることには間違いなく気づいているくせに、ずっと気付かないふりをしている。

 だから土方は考える。沖田は言葉で武装しているのだと。
 沖田はたくさんの言葉と一緒に、偽物の感情の作り方を覚えた。笑いたくなくても笑うことができるし、悲しんでいるふりもできる。そうして偽物たちでまやかし、人を「本当のこと」から遠ざけるのだ。真選組という組織の一部になってから、一層それは顕著になったように思う。

 それよりも前の、もっと幼かった頃の沖田は今みたいによく話すほうではなかったように思う。しかし少なくともちゃんと「本当のこと」を伝えられる子供ではあったはずなのだ。言葉が少なくてもちゃんと沖田の感じていることや思っていることを理解することができた。それともあの時言葉以外のものに甘えてしまったから、いつの間にか二人の距離は離れてしまったのだろうか。

「土方さん?」

 我に返ると沖田がこちらを見上げていた。細い指が伸ばされて土方の顔のラインをなぞる。

「不安そうな顔してる」

 お前が何も話さないからだと正直に答えたら、きっと沖田は困ったように笑うのだろう。昔から、どうしようもないことにぶち当たると沖田はきまってそういう表情をする。

「俺のせい?」

 そっちこそ不安そうに聞いてくるので頭をくしゃりと撫でてやった。すると気持ちよさそうにもっとやってと言うみたいに体を預けてくるので背中に腕を回してめいっぱいかまってやる。

 今の沖田が嫌だとか、そういう風に思っているわけではないのだ。ただもっといろいろな気持ちを聞かせてほしいと思う。一人で全部抱え込んで駄目になってほしくないのだ。
 土方さんの心臓の音がすると呟く、その沖田の心音は土方には聞こえなかった。こんなに近くにいるのにやはり、沖田の心の声は土方には届かない。

「なあ、総悟」

 全てが知りたいわけではない。全てを分かり合えなくたって構わない。ただいつか、とても大切な音無き声を拾い損ねてしまうのではないかと。

「俺の前から黙っていなくなることだけはするな」

 いつか気付くことができなくて死ぬほど後悔する日が来ること、それだけを心から恐れている。



62.おちていく(土→沖)

 書類を提出するように。人づてにその命令はやってきて、そもそもあれに上司ヅラされること自体が気に食わない沖田は少なからず不愉快を覚えたのだが非常に残念なことに件の書類は昨日のうちに完成してしまっていた。我ながら珍しいことではあるのだが、とにかく完成したからには届けて机の上から処分しないと邪魔なのだった。ちなみに締め切りは確か一週間くらい前。

 そんなわけで不本意ながら書類を提出しに行って、これまた珍しくどこも問題なかったので再提出もなくて、さあ面倒くさい用事は済んだこれからどこへ遊びに行こうと考えながら回れ右したところで。

「ちょっと待て総悟」

 呼び止められた。

「なんですかィ。まだ何か御用でも?」
「あるから呼び止めてんだろ」

 仕方がないので一旦開きかけた戸を閉めなおす。また二人きり。自分で閉めたくせに退路を奪われた気になる。

「この前の返事、そろそろほしいんだけど」
「……なんのことですかィ」

 本当は聞かなくてもわかっていた。しかしわかっている自分が癪だったのでわからないフリをした。

「すっとぼけてんじゃねぇよ」
「とぼけてるんじゃなくて忘れようという努力の一環でさァ」
「てめ……」

 土方の顔が不機嫌に歪む。沖田と話しているとよく土方はこんな風に不機嫌になる。沖田も土方が不機嫌になることをわかっていてわざわざ狙って地雷ばかり踏んでいる。そんな性悪な沖田に好きだと打ち明けてきた土方の気持ちなど、さっぱり理解不能だった。

「てゆうか冗談だと思ってやした」
「嘘だな」

 土方はきっぱりと否定した。そういえば狼少年って最後の最後で信じてもらえず食べられちゃうんだっけかと、小さい頃に読んだ絵本の話を思い出した。今までたくさん嘘をついて騙してきたから、肝心な時に限って見透かされてしまった。絵本とは正反対。

「冗談だと思ってなかったから、ずっと避けてたんだろ」

 俺のこと。

 ああそうだはじめからわかっていた。本気だったことも、懇願でも脅迫でも命令でもなく予告だったことも。あの時沖田にわからなかったのは人間の心のメカニズムくらいだ。ちょうど二人分の。

「俺があんたのことを好きになるなんざ、天地がひっくり返ってもありえねェ」
「本当に?」
「ほんとうに」
「じゃあまずは天地をひっくり返すとこから始めてみるか」

 独り言めいた予告を呟き、立ち上がる。そんなに速くはない足取りでこっちへやってくる。急いだ風でないのが逆にいたぶるようで、背中を冷たい汗が伝った。

 逃げ道はすぐ真後ろにある。開け放って脱兎のごとく逃げ出そうと思ったが、開けることはできなかった。外に人の気配がする。
 こんなところを見られたら、あるいは会話を聞かれたら。生じた迷いを打ち払うよりも早く、後ろから抱きしめられる。つかまった。クツクツと静かな笑い声が囁く。

「ああ、そういや山崎のこと呼びつけてたんだった。忘れてたぜ」
「……嘘だ。絶対嘘に決まってる」
「そうだって言ったら?」
「……鬼」

 やっぱり確信犯だった。逃げられないよう外側から鍵をかけたのだ。人の目と耳という鍵を。
 拘束から解放されたと思ったら向かい合わせにさせられて唇を食べられる。口の中に入り込んできた舌がぐちゅぐちゅと中をかき回し、まるでそこだけ土方の領土にされたみたいだった。
 じきに息が苦しくなって、カクンと足の力が抜ける。優しく抱きしめられて支えられ、無防備にさらけ出した耳に低く甘い声で呪いを吹き込まれた。

「お前も早く俺のことを好きになればいい」

 狼少年の末路がまた頭に浮かぶ。今に口内だけではなく爪先から髪の毛一本まで残らず侵略されて、最後には心臓をパクリと食べられてしまうのかもしれない。
 この人なしでは生きていけないくらいの強い情を抱いて、自分だけを見てほしいとせがみ、自分からキスをねだって、それからもっとそれ以上のことだって。そんな仮初の未来を想像してみたらシアワセという単語がふっと頭に浮かんで、もう何もかも手遅れかもしれないと陥落間近の心臓が呟いた。



63.祭りのはなし(あぶかむ)

 今度の星はやけに甘ったるかった。

「っくしゅ」

 斜め後ろから見た目を裏切らず中身を裏切るかわいらしいくしゃみが一つ聞こえた。いつの間にやら未知の世界を観察するのに夢中で遅れていることに気付いたのか、タンと地を蹴る軽い足音がしたと思ったら服の上から肩のあたりに顔を押し付けてくる。阿伏兎はもちろん青褪めて悲鳴を上げた。

「うわっ、何しやがる団長!」
「だって、くしゃみしたら鼻がたれてきたんだよ」
「だからってどうして俺の服で拭くんだ!」
「なんかちょうどよさそうだったから」

 ひどい。あんまりだ。何がちょうどいいんだ。仮にそう嘆いたところで神威は何の感情も抱かないだろう。だから阿伏兎は早々に諦めて尚も顔を押し付けるのを好きにさせてやって、仕事が片付いたら経費でクリーニングに出そうとだけ考えることにする。神威の部下になってからいろいろと諦めるのが上手くなった自覚はある。これはきっと時の経過のためではなく上司が問題なのだと信じて疑わない。

「それにしても本当に甘ったるい星だね。阿伏兎、あの泥んこ色は何?」

 神威はくんくん匂いを嗅ぎながら尋ねてきた。この食欲の魔人が通りのあちらこちらで売られているものが食べ物であることに気がつかないはずはないので、比喩がひどいことにはただの性格に他ならない。さっきから血眼で商品を選別しているこの星の住人たちが耳にしたらきっと怒り出すことだろう。

「あれはチョコレートだ団長。そして今、この星はチョコを配る祭りの時期らしい」
「ふーん。そうなんだ。じゃあまた撒くの? それなら撒くまでこの星にいようよ」
「撒かねぇし、仮に撒いたとしても絶対駄目だ」
「えー」

 撒く、というのはこの前の星での出来事の話である。そのことを思い出し、阿伏兎は苦い顔をした。
 つい10日ほど前、第七師団は別の星で仕事をしていた。その星もちょうど祭りの最中で、あちこちで人々が豆を撒いていたのだ。もちろん祭りだろうがなんだろうが春雨の仕事に関係はないので阿伏兎は当たり前のように仕事をして、神威は当たり前のように一人でぶらぶらしていた。そして仕事の済んだ阿伏兎がその辺を徘徊しているはずの神威を回収しに行くと、神威は地面に座って一心不乱に落ちている豆を食い漁っていたのである。しかもその様を見た星の住人たちが哀れんだのかオニギリやら缶ジュースやらまで恵まれて、神威の周りだけ小さな市場が出来上がっていた。
 宇宙海賊春雨の一個師団長ともあろう者が、宿無しの人と間違われ哀れまれるとはなんたることだ。阿伏兎は戦慄し、心から泣きたくなった。なので今回は放牧はやめてこうして連れ歩いているのである。

「阿伏兎ってば、まだこの前のこと怒ってるの?」
「怒ってるんじゃねぇよ、呆れてるんだ俺は」
「だって食べ物を粗末にしちゃいけないだろ? だから俺は供養のために我が身を省みずがんばったんだよ?」

 はあ、と阿伏兎は神威に気付かれないよう密かに溜息を吐く。食べ物を粗末にしてはいけないと言われると、もう何も言い返す言葉が思いつかなくなるのだ。神威の昔のことはよく知らないが、とても貧しい、もとい、ひもじい生活をしていたらしいことだけはなんとなく日々の会話の端々から察していた。神威はお腹いっぱい食べられる今でも米粒一つ残さないし、基本的には好き嫌いもしない。食に対して神威はとても誠実だ。将来は米粒とでも結婚したらいい。

「なあ団長、この甘ったるい祭りはバレンタインっていうらしい。チョコを相手に贈るイベントで、決して地面にばら撒いたりはしない。だから団長ががんばる必要はない」

 実際は食べられずに消えていく悲恋のチョコもあるだろう。そのことはもちろんわかっていたのだが言い出すとまた面倒なことになるのでその辺りは知らないことにしておいた。それにどうせ恋のイベントだなんて教えたところで米粒が花嫁候補の神威には理解できまい。

「贈るって、誰が誰に?」
「あー……突っ込まれる方が突っ込む方に?」

 好きな人に、なんていう言葉をいい年して使うのはなんとなく憚られて、選んだ言葉の残念さに自分で悲しくなった。こんな真昼間からそれこそいい年したオッサンが一体何を口走っているのだろう。
 しかし神威は阿伏兎のそんな胸の内など知らず、きょとんとして阿伏兎を見上げていた。不可解な祭りについて神威なりに考えようとしているらしい。ちょうど通り過ぎた店から香るとびきり甘い匂いにちょっとそちらを見やりつつ、神威はややあってから次のように尋ねた。

「つまり、今日は俺が阿伏兎に突っ込めばいいの?」
「…………なんでだ!!」

 一体どこでどう間違ってそんな恐ろしい結論に辿り着いてしまったのか、阿伏兎には理解不能だった。あまりにも怖すぎてつい大声を出してしまいチョコレートを吟味していた星の住人たちの視線が一斉にこちらへ集まる。今の声で見られているのならまだいいのだが、神威の発言のために見られているのだったらちょっと当分立ち直れないかもしれない。

「あんまり自信ないけど俺がんばるよ」
「がんばらなくていいから。だから頼むからちょっと黙ってくれ団長」
「そうしたらチョコとかいうの買ってくれる?」
「わかったから、俺が悪かったから、もう過去のことをほじくり返したりしないから、どうか許してください団長様。あなた様の望むだけ贈らせていただきます」

 そうして完全に白旗を上げた阿伏兎に神威はにっこりと笑みを浮かべた。わかればいいんだよと言って、とびきりいい匂いのする店の方へ歩いていく神威の後を仕方なく阿伏兎は追いかけていく。ちゃんとこの見返りはもらえるのかと、どうでもいいことを考えつつ。



64.優しくしないで(土沖)

 たった一年前のことのはずなのにもう十年は昔のことのような気がした。しかし十年前では引き算をすると自分は八歳で、そんな昔のことであるはずがない。
 一年前、沖田は二ヶ月間だけ土方と恋人と呼べるような関係にあった。確かにはじめはとろけるくらい幸せだったはずなのに今では本当はどうだったのかもうはっきりと思い出せない。自分の感情のことなのに。あまりにも粉々に、目には見えない何かが砕けてしまい過ぎてもう一人ではそのパズルを解くことはできないのだ。だから沖田は土方と別れたあの日、自分の内側にみっともなく散らばっている名前のつけられない残骸たちを皆まとめて封印してしまうことに決めた。

 たった一年前の話。もう一年も昔の話。

「怪我したんだって?」

 ちょっとヘマをして右腕を骨折しただけだった。しばらくは役立たずだが治ってしまえば完全に元通りで何の支障もない。別に二度と剣が握れなくなるわけでもないし、今だけちょっと不便なだけだ。だから書類での報告しかしなかった。しかしこれではさすがに外回りの仕事はできないのでシフトの調整の申し出くらいはしなくてはいけないかなと気が付いて、どうすれば顔を見ずにうまいこと報告できるだろうと逃げ道を模索していた、ちょうどその時だった。
 会いたくない張本人が空気も読まずに沖田のところにやってきてしまったのは。

「お前これ軽症って折れてんじゃねぇか。怪我は詳細に説明しろってマニュアルにあるだろうが!」
「だって、右手で書くのだりィんだもん」
「これ思いっきり別の奴の代筆だろ。下手な言い訳してんじゃねえよ」

 本当は軽く小突くくらいはしたかったのかもしれないが、沖田が怪我人だったせいか土方は呆れたように溜息をつくだけだった。それから沖田の頬に張られた絆創膏に気がついて、手を伸ばす。

「こっちはどうなってんだ?」
「ちょっと、切れただけでさァ」

 すう、と土方の人差し指の背がそこを撫ぜた。絆創膏越しに与えられた小さな圧迫に、傷が小さな熱を宿す。同時に胸の奥でも同じようなよく似た熱がはじけた。

 二ヶ月で別れた理由は沖田が土方を好きではなくなったからだ。土方だってそのことはあの日きちんと伝えたから知っている。それなのに沖田を心配して傷に触る手は、あの頃の土方が沖田にくれたものと全く同じ温もりを与えるのだ。まるで当たり前のことのように。

「他に怪我は?」
「口で言うのめんどいから、後で紙にまとめて出しまさァ」

 本当は代筆を頼まないといけないのでそちらのほうが手間なのだが、土方とこれ以上口をきいていたくなくて沖田は背を向けた。歩いていこうとするとすぐに距離を詰められたが、折れた方に手を伸ばしてしまったことに躊躇して空中を彷徨う。その間に遠くへ逃げようとしたのは失敗して、反対側に回られて折れていない方の手を掴まれた。

「待てよ」
「離してくだせェ」

 乱暴にその手を振りほどくと土方はびっくりしたようだった。あるいは傷ついたような。おかげでまた怪我したところがちりちり痛んだ。

「あんたは俺に優しくしちゃいけねェんです」
「……は、なんだよそれ」
「当たり前でしょう?」

 だって二人は別れたのだ。もうキスもそれ以上のこともしない。優しくしたりされたりもあってはならない。じゃないと胸が苦しくてどうしようもなくなってしまうから。

「俺はあんたに触られんのが死ぬほど嫌いなんでさァ」

 昔は大好きだったのに、今はその思い出さえも見えない内側にある怪我でしかないのだ。骨折はしばらくすれば治るというのにこっちのほうは一年経っても未だに治る兆しがない。この痛みだけはもう一生消せないのかもしれなかった。それとも土方が手伝ってくれたなら、あの日壊れたものも内側に抱える痛みも皆あるべき形に戻ってくれるのだろうか。それでも試してみようという気には、とてもではないがなれそうになかった。



65.鏡よ鏡(あぶかむ)

 その笑顔が怖いのだ。

「阿伏兎、お前は誰のもの?」
「それはもちろん、麗しき団長様のものでございます」
「嘘吐き」

 面倒くさいだけの仕事から帰還するなり私室に呼びつけられ、顔を見るなりこれである。極上の微笑という定番のオプション付きで。
 それにしてもベッドはぐちゃぐちゃ、服は脱ぎ散らかしたまま、机は真っ二つで椅子は粉々、ここはいったいどこのわんぱく子供部屋だろう。

 よそ見をしてこっそり溜息を吐き掛けたところを見計らうかのように豪速球で枕が飛んできて、片手で受け止めるや衝撃で破裂して、中の羽毛が部屋中に舞い上がった。まるで天使が降り立ったよう。なんてことはなく、実際は部屋の汚さに拍車をかけただけだが。

「もう行っていいよ、寝る」

 神威は不機嫌を隠さぬ声音で枕のないベッドに伏した。本当のところをいうと阿伏兎も疲れているので素直にお言葉に甘えて自分の部屋へ戻りたかった。しかしここで言葉通りに引き下がると更に状況が悪化することは残念ながら以前身をもって経験済みである。見目麗しいこの上司は生来の天邪鬼なのだ。それともこれは後天的なものだったりするのだろうか。ふと、どうでもいいことに思考を彷徨わせる。

 はらはらと天使の羽根の舞う部屋で、大きな子供は足をばたばたやって無言の主張をしていた。その主張の内容までは残念ながら不明だが、そんなことより若いとはいえそろそろいい年だろうにこれはないだろうと、そちらのほうが気になって嘆息した。いい大人どころかもう、かなりの地位もあるのに。
 それともこれは相応の年の頃に得られなかった何かへの反動なのだろうか。だとしたらひどく困る。子供のほしがるものなど一つとして与えてやることができないのだから。そして与えたくもない。

 だから別のやり方で、阿伏兎の知っているやり方でご機嫌をとることにする。
 使い物にならなくなった枕の残骸を放り捨て、ベッドの脇に手をついてピンク色の後頭部を見下ろして囁いた。

「団長、なあにぶーたれてんだよ。言わなきゃわかんねえっての」

 返事はない。しかし子供の足はぴたりと大人しくなった。試しにご機嫌取りに白い項に唇を落としてみても拒絶はされなかった。調子に乗ってピンクの淡いから除く耳たぶを甘噛みしてみる。気分としては性的なそれというよりもむしろ猛獣使いのようで内心ひそかに苦笑いする。

「なあ、団長」
「……って言った」
「あ?」
「三日で戻るって」
「……あー」

 そういえば出掛けにそんな会話をしたかもしれない。神威が戻りはいつ頃になるかと問うので答えたのだ。およそ3日程で戻れるだろうと。

「ってちょっと待て。俺ぁ3日程って言ったぞ。きっかり3日とは言ってねえ」
「阿伏兎のくせに屁理屈をいうな」
「屁理屈じゃねえよ馬鹿か。あんたの理解力にまで責任持てねえっての……うぁ」

 急に神威が振り返るので大きく仰け反る。胸ぐらを掴まれたので投げ飛ばされるかと焦った。しかし予想外にもそのまま強大な力で押され、陥没させん勢いでベッドに沈められる。むしろめり込む。これでベッドが壊れないのはひとえに荒っぽい遊戯を想定しての特注品だからである。過去の俺グッジョブ。

 どうせならどんな顔をしているのか見てやりたかった。しかし今ひっついているのを無理に引き剥がしたらいったいどんな報復に合うかわかったものではない。それこそ投げ飛ばされるどころでは済まないかもしれない。だから諦めてそのままにさせておいて、この場合背中に手を回すべきなのだろうかと思案に暮れる。

「つうか4日だろ……1日くらいいいじゃねえか」
「ちっともよくないよ。お前がいなくて俺がどれだけ退屈だったと思ってるの?」
「なーんで俺以外とは遊べないかねえ団長様は……」
「自惚れるなよ。ただちょっと、今は阿伏兎と遊びたい気分だっただけなんだから」
「あーはいはい。さようでございますか」

 結局、背中に手は回さないことにした。かわりになんとなくピンクの三つ編みを勝手に解いて手の中で遊ばせる。そのうちに神威の重さが心地よくて天使の羽根のような柔らかい眠気が舞い降りてきて目を閉じた。

「阿伏兎、眠いの?」

 もぞりと動く気配に再び目を開けると鮮やかな色の瞳がすぐそばで不思議そうにこちらを覗き込んでいた。もう不機嫌の色がその中にないことに安堵する。

「船ん中でも仕事してて寝てねえんだよ」
「ふうん。それで何して遊ぶ?」
「……んのガキ、人の話聞けよ」
「あはは、うそうそ。冗談だよ」

 寝てもいいよと笑い声で囀った気がしたが定かではないままうとうとと瞼を閉じた。
 もしかしたらこれはもう夢なのではないだろうかと微睡みの中で思った。夢の中でくらいなら、もう少し甘やかしてやってもいいかもしれない。

 もっとも全ては狭いから自分の部屋で寝てよとぶん投げられるまでの、束の間の夢だったのだけど。




 あぶかむが増えてきました。

11/05/05