キリエ


 あの頃の自分が知らなかっただけで、存外にこの首は細かったのか。それとも二年の月日で我が手指が少しばかり大きくなったのか。

 ひたりと手を添わせれば、その首を締め上げることはいとも容易かった。
 安らかな寝顔が歪み、苦しげな吐息が薄くあいた唇から零れ出る。あの張り付いた笑み以外にもまだこんな表情もあったのだなと知って小さな感動を覚えた。
 しかし瞳はきつく閉ざされたまま、手は布団の上に転がったまま、抵抗どころか起きようとする素振りすらない。この部屋に一歩足を踏み入れた時点でちゃんと覚醒しているはずなのに。そこまで鈍くなったとはさすがに思わない。もしそうならば、このまま死んでしまえばいい。

 では、二年前ならどうだったろうか。あの頃のこの人はきっとはじめは気づかないふりをする。そうして招き入れて誘い込んで、こんな風に馬乗りになって悪戯をしようとしたところで目を開くのだ。逃げる間もなく瞬時にこの手を捕えて形勢逆転するだろう。十年早いと狩人の笑みをして、我が身を布団に縫いとめて。
 でも実際は十年もかからなかった。二年で足りた。なんてあっけないのだろう。

「……つまらん」

 急に興が覚めて首から手を離した。土方は酸素を求めて激しく咳き込む。それでも強情に目を開けようとしないので、腹が立って平手を上げた。ぱちんと弾ける音が闇を震わせる。いつまで狸寝入りをきめこむつもりなのかと閉じたままの瞳を睨めおろした。

「なぜ、抵抗しない」

 首を絞めても、殴っても。
 二年前なら違ったはずだ。何もかもこんなに簡単ではなかった。苛立ちを紛らわすように唇をきつく噛みしめる。
 沖田が問うと土方はようやく、ゆっくりと瞼を持ち上げた。にっこりと気味の悪い笑顔を張り付かせて。

「その方が貴方もやりやすいかと思いまして」
「っ……馬鹿にするな!」

 今度は先ほどよりも鈍い音が響く。握り方がまずかったのかこちらの拳まで痛かった。それでも土方は表情を変えない。唇に血を滲ませたまま、にこにこと笑っている。

 何を考えているのか全く分からなかった。あの頃は触れたところから流れ込んでくるみたいだったのに。いつからだろう。いつから我々はこんなにも逸れてしまったのだろう。同じ組織にいてももう、同じ道の上にいるとは思えない。この眼に映る景色と彼の眼に映る景色は最早同じではない。とてもとても、遠いのだ。

「何がご不満なのですか? よろしければおっしゃっていただけませんか」

 カイザー、と偽りの名前を呼ぶ。その声はとても静かで穏やかだった。まるで海の底のよう。何も見えない何も聞こえない。冷たい秩序だけが漂う灰色の。だいきらい。

「貴方は全てを手に入れたはずです。あの頃の貴方が望んでいたものは今や全て貴方の手の中にある。違いますか?」
「……ええ、そのとおりです」

 隊長よりも上の地位がほしかった。他の誰にも負けない強さがほしかった。早く大人になりたかった。認められたかった、一人前の人間として。そうすれば、叶うと信じていた願いがあったから。全ての望みはその願いのためだった。

「でも、一つだけ失いました」


 あなたを。


「私はそれが許せない」

 今だって、あの頃と同じで望めば何でもしてくれる。なんでも与えてくれる。しかしそれは優しい温かい感情からくるものではなく、ただ命令をこなしているだけにすぎないのだ。総悟と名前を呼ぶことも、頭を撫でてくれることも、抱きしめてくれることも、過ぎた悪戯を叱ることもない。
 今はもうただロボットのようにここに在るだけ。あの頃の自分に注がれていたはずの心は知らぬうちにどこかへ消えてしまった。どんなに望んでも、もうあの頃のあの人はどこにもいない。取り戻せない。失ったのだとやがて気づいた。遅すぎたと後悔しても時間は戻らない。

「全てを手に入れたのに、あなたの心だけがこの手の内にはない」

 あの頃の自分は他のどんなものよりもそれこそが最も大切だったことを、ちゃんと知っていたはずなのに。手を放すつもりなどなかった。それなのにどうしてかいつの間にか掬い上げたはずの水のように手の内から零れ落ちてなくなっていた。
 ねえ、どうして。

「カイザー」

 土方の手が沖田の顔に触れる。指が頬をなぞっただけで不覚にも涙が零れそうになった。

「苦しいのですか?」

 苦しいんです。声に出してしまったらきっと泣いてしまうから、かわりに小さく頷いた。
 全てを手に入れたはずのこの世界から本当はずっと抜け出したかった。どんな力だろうとそれは、一番大切なものと引き換えにしてまでほしくはなかったのだ。だってあの頃の自分がほしがっていたものはすべて、この人を守るためだったのだから。

 あなたより偉くなれば、あなたより強くなれば、一人前の大人になれば、あなたを守れると思った。守りたかった。心から。
 だから今は後悔している。

 土方の手がそっと沖田の頬を包む。もうそこにあの張り付いた笑顔はなかった。


「じゃあもっと苦しめばいい」


 酷薄に。この二年間一度も見せたことのない顔で笑う。
 それからは一瞬の出来事だった。腹に膝を埋められて、揺らめいた隙に乱暴に上下を入れ替えられる。大きな手が首を掴み、握り締めた。頭が真っ白になる。

「……っぐ、う……」

 ひじかたさん? 無意識に名前を呼ぼうとして胸が詰まる。
 何が起こっているのかわからなかった。もしかしたら夢を見ているのだろうか。だとしたらこれはいい夢なのか悪い夢なのか。土方の瞳の中には昏い憎悪が住み着いていた。

 もうあの頃のあの人はいないのだと思っていた。心などとうに忘れたのだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。ずっと牙を隠して、できのいい人形のふりをしていたのだ。
 策略を巡らせて、陥れる。完膚なきまでに叩きのめすためには手段を択ばない。何も変わってなどいなかったのだ。ただ、憎まれていただけで。

 心のどこかで、このままこの手にかかるのも悪くないと思っていた。この世界から救い出してくれるとしたら、この人しかいないとずっと信じていたから。それがこういう形だって、もう構わない。失ったものを取り戻せないなら。

 最後はせめて優しい夢が見たいと思った。それなのに急にぱっと手を離されて喉が酸素を求めて暴れる。さっきの土方と同じように喘ぐ沖田を、土方は冷たく見下ろしていた。カイザー、と氷のような声が言う。

「誰がてめえの思い通りになってやるかよ」

 抵抗を望むなら無抵抗を、死を望むなら生を。きっと今だけじゃない、土方はずっと沖田の望まない道ばかりを選び続けていたのだろう。
 心など見えなくて当たり前だったのだ。沖田がほしがったから、決して見つけることすら叶わぬよう遠ざけて隠していたのだ。
 絶望だけを与えられるように仕向けられていた。望まれていた。


「……あんたは、俺のことが嫌いだったの」


 首を絞められたせいで声が掠れていて、一語一語を音にするだけで痛んだ。心が、土方さんと呼んだら張り裂けそうだった。土方の中の憎しみに一瞬だけ悲しみの色が揺れる。


「この世界から俺の総悟を奪った奴は全員敵なんだよ」


 それがたとえ本人だろうと、許さない。
 憎悪と悲しみを抱いた声が低く囁く。こんなにも愛されていたことを、あの頃の幸せだった自分はちっとも知らなかった。世界を敵に回しても構わないほど強く望まれていたことなんて知らなかった。ただ自分のことばかり、あなたを守りたいと願うばかりで。なんて愚かだったのだろう。
 もう全て遅いのに今更気が付いて、うれしいと思うなんて馬鹿だ。

「土方さん」
「……もう、その呼び方をするんじゃねえ」

 ほしくてほしくて、伸ばした手は叩き落された。
 それではどうすれば良いというのだろう。もう何もかも変わりすぎてしまって、取り返しがつかない。今更リセットなんて都合のいことはできるはずがないのだ。子供だった頃に戻りたいなんて、望んだって叶うわけがない。もうあなただけのものには戻れないのだ。

 もうどうしようもないのだと悟ったら涙が溢れて止まらなかった。拭ってくれる優しい手はもうないから、枯れるまで泣くしかないのかもしれない。それでもきっと無理やりに生かされて、カイザーとして生き続けることを強いられるのだろう。それがこの人から大切なものを奪ったカイザーへの復讐なのだ。

 あなたを守る力がほしかっただけなのに。どうしてこんな未来へ辿り着いてしまったのだろう。
 もうあなたを守ることが叶わないなら、かわりに願おう。

「土方さん、こんな世界壊してくだせェ……」

 もう呼ぶなと言われても無理だった。何度も何度も泣きながらその名を呼ぶ。やがて大きな手が落ちてきて世界に目隠しをした。どういうつもりだったのかは知らないが、偽物の暗闇は本当に深い海の底のようだった。

 呪われろと吐いた声すらいとおしくて、呪ってほしいと唱える。あなたがくれるものなら、もうなんだっていい。




 ブルーバードに続きます。

2011/06/09