ブルーバード


「命令だ。動くな」

 麗しのカイザー様がミルクキャンディをご所望だと、副長にコンビニまで走らされた。そうして買って戻ったはいいものの副長はアンパン星だかアンパンの精だかと交信中で別世界に行ってしまい、そんなつもりはなかったのい自分届けに行く羽目になった。

 沖田もまさか土方が直接届けに来るとは思っていなかったのだろう。ミルクキャンディを両手で受け取る表情はぽかんとしていて間抜けだった。冷血な皇帝とは程遠い。
 こうしていると二年の月日など嘘だった気がするのに、そんなことはないのである。畳敷きで布団一枚以外は趣味の呪いグッズが一塊の山となっていた頃とはもう違う。部屋は何倍も広く天蓋付のベッドに赤い上等な絨毯、天井からはまるでシャンデリアのような豪奢な明かりが吊り下がっている。あの頃から変わらない調度は刀と、最愛だった姉の写真一枚きりだ。

 ご所望の品を届ければもうここに用はなかった。それなのに失礼しますと慇懃に一礼をして下がろうとしたところを呼び止められる。
 煩わしい。正直にそう思った。この後とくに用事があるわけではないが、今の沖田と話をするつもりもない。これはもうあの頃の自分が知っている生き物とは違うのだ。だからもう興味などない。話していても辛いだけだと知っている。

「まだ、何か」

 カイザー。彼がこの二年で新たに手に入れた名前で呼ぶ。一瞬だけ、傷ついたような色を浮かべたのを見逃しはしなかったが気づかないふりをした。どうだってよかった。

 そして沖田は命じたのだ。動くなと。

 今は二人きりなので、偽物の忠誠を演じる必要はなかった。自分が今の沖田に敵意と憎悪しか抱いていないことは既に彼も知るところで、いまさらどんなに冷たくあしらおうと世界が一ミリも揺らぐことはない。解雇したければいつでも好きにしたらいいと思っている。この組織はもう自分がいなくてもやっていける。

 それでも命令に従ってやったのはただの気まぐれだった。この前の仕返しでもするのだろうかと興味がわいた。それならば望むところだ。そうして目の前に立ち、微動だにしないマネキンの真似事をした。冷たい眼で彼を見下ろし観察する。

 まるで未知の生物に触れるかのように怖々と指先が顔に伸ばされる。一瞬掠めただけでまるで電流でも流れたみたいにぱっと離れる。一度弱く握りしめて開いて、また、頬にとまる。

 沖田は眩しそうに目を細めた。宝物を扱うような繊細さで土方の頬に触る。好きにさせたまま、土方も沖田を眼で観察していた。
 二年前より少しだけ目線が近くなった。顔だちも精悍になって、もう子供とは遠い生き物に見える。他の隊士たちの前ではなおさら別人の、圧政を敷く皇帝の顔をするようになった。
 しかし土方と二人の時だけは時折、ふとした瞬間に昔の面影を見せることがある。土方が恋してやまなかった頃の、沖田総悟の顔をする。それがどうしても、どうしても許せない。

 両手でそっと頬を包み、沖田は一度、深く瞬きをした。緊張を紛らすように唇を舌先で舐める。戯れに付き合ってやるのもこのあたりが潮時かと土方もふと瞼を閉じてまたすぐ開いた。
 もう前ほど背伸びをする必要はない。少し上向けて重ねようとした震える赤い唇を土方は手で塞いだ。掌の中で声がくぐもって弾ける。動揺が触れたところから伝わってきた。あっという間に耳まで熱を孕んで。

 大したことをしたつもりはなかった。ただちょっと手で口を塞いだだけではないか。たったそれだけなのに、こんな反応が返ってくるとは思いもよらなくて狼狽える。昔はもっとえげつないことをしても呆れてしまうくらい涼しい顔をしていたくせに。今のこいつを一瞬でも、かわいいなんて思ってしまった自分が悔しい。

「命令に背きました。申し訳ございません」

 平静を装って冷たい機械のようにふるまい、手を離すと止まっていた時間が動き出すように沖田はばっと後ろに下がった。
 自分の手の甲で唇に触る。それからやっと、巡り始めた頭で正反対の、拒絶の意思を理解したのだろう。悲しそうに睫毛を伏せる。

「私には触られるのも嫌ですか」

 もしも今、そうだと口にしたのなら次の瞬間この顔はぐしゃぐしゃに引き歪むのだろう。その様を見てやりたいと思った。しかし今このタイミングで泣かせるのはうまくない。この前の夜と今とでは違うのだ。今日の彼にはまだカイザーとしての仕事が残っている。

「カイザー、この組織は今や貴方のカリスマ的支配によって成り立っているのです。そのカリスマを濁らせるような真似をしてはいけません。貴方は誰にも弱みなど見せてはいけない。常に一人、前を向いていなくてはいけません」

 ここはもうかつての真選組とは違うのだ。沖田一人の力で維持された砂の城にも等しい。もしも沖田のカイザーとしてのカリスマが損なわれることがれば、きっとあっという間に崩壊してしまうだろう。神聖真選組帝国にとって彼はなくてはならない存在なのだ。冷血で無慈悲で、絶対的な支配者として。

 だから恋などしてはならない。しかもその相手が同性など、尚更許されはしない。

「おわかりですか、カイザー」

 昔、土方がまだ副長だったころ沖田は土方に同じことを言ったことがある。土方さん、あんたは俺なんかにそんな思いを抱いちゃいけないんでさァ。ふとあの時の言葉が脳裏に蘇って胸が痛んだ。うるさい黙れ。俺を置いて変わってしまったお前などもう知るものか。

「それが、あなたの望みですか」

 息を呑む。
 そんなことは知らないと、撥ねつけられるかと思った。あるいは涙を零すだろうかと。しかし沖田はそのどちらでもなく透き通った静かな瞳で、そう尋ねたのである。その声はあまりにも透明で純粋で、そこに横たわる感情が何であるのか土方にはわからなかった。

 そうだあの時もあいつは同じ顔と声をしていたんだ。思い出したら眩暈がした。いけないと、遠くで警鐘が鳴っていた。
 何か言おうと思っても言葉が見つからない。探しているうちにドアがノックされ、出立の時間ですと声が響く。今行くとカイザーが答える。もう一度土方を見上げた瞳に迷いはなかった。あの時と同じように笑みを浮かべて。

「あなたが今でもここを守りたいと望むのなら、私はそれに答えましょう」

 カイザーとして。
 背を向けて、出ていく背中を眼で追いかける。彼は一度も後ろを振り返らなかった。土方の押し付けた言葉を忠実に実行するかのように。

 もしもあの背中を抱きしめて総悟と名を呼んだなら、悪い魔法は解けるだろうか。
 しかし今の自分には彼のかわりにこの組織を立て直すだけの力も、あの手を取って共に逃げ出すような勇気も残されてはいないのだ。牙の折れた負け犬だ。

 だからかわりに唇だけで、彼の名を空気に刻んだ。






 将軍と会うはずだったカイザーの車がテロリストに襲撃されたという話が流れてきたのは、それからしばらくしてからのことだった。車は炎上し、カイザーは部下たちを足手まといだからとその場に残し一人でどこかへ行ってしまったらしい。襲撃者たちもカイザーを追いかけていったらしいがその後の足跡は不明だ。

 情報はいったいどこから流れてきたのか人から人へ伝えられては行くものの、肝心の出動命令がいつまで待ってもどこの隊にも下らない。何か言い知れぬ不安を感じて土方が作戦室に忍び込むと、そこでは恐ろしい光景が繰り広げられていた。

 戦慄を覚える。

「さあ、野郎ども。今こそアンパンの神に祈るのだ! アンパンの神よー我らがカイザーの御霊を救いたまえ―! アンアンアーン!」
「アンアンアーン!」

 副長を中心に幹部たちが輪になって両手を広げ叫んでいる。それはもう一心不乱に、アンパンの神へ向かって。
 見なかったことにしようと土方はそっと扉を閉めた。もしかしたらもうこんな組織は早いところ壊滅してしまった方がいいのかもしれないとうっすら考える。今の真選組に存在するだけの価値があるのか。沖田がもう土方の知る沖田ではないように、真選組も最早土方が作り上げてきた真選組ではないのだ。というか神聖真選組帝国になってしまった。

 もうここには自分の知っている二年前の面影はどこにもない。今の沖田や神聖真選組帝国がどうなったって土方には関係のない話なのだ。むしろ憎悪しているくらいだ。それなのに、ここを守るといった時の沖田の顔が頭から離れなかった。あれが時折見せる二年前の面影だって土方を苛立たせるだけだったはずなのに、さっきから気になって仕方ないのだ。あれは沖田総悟ではないのだと何度自分に言い聞かせてもどうしようもない。

 いつの間にやらあれから二年がたった。この二年、ほとんど共に過ごすことはなかった気がする。真選組は神聖真選組帝国になり、沖田はカイザーとなった。土方はパシリになった。何もかもが知らないうちに変わってしまった。自分一人を置き去りに。

「……あいつは、総悟じゃない」

 そう思わないとやっていけなかった。笑うことを忘れ、心を殺して全てを一人で背負いこんだあの青年を沖田だと認めることはできなかった。自分はあの子供を守れなかったなどと、認めてしまいたくはなかった。

「俺の知っている総悟じゃねえ……」

 こっちが現実だというのなら、きっとあっちは夢だったのだ。夢の中で恋をして、愛したのだと思おうとした。それくらいしかできなかった。何もかもが受け入れられなくて。

「だから、今のあいつがどうなったって……」

 本当にいいのか?

 思い出す。眩しそうに見上げる瞳を。宝物のように触れる指先を。あなたが望むのならといった、揺るぎない言葉を。
 本当にあそこに、沖田総悟はひとかけらも存在しなかっただろうか。本当に?

「……くそ!」

 見捨てるなんてやっぱり無理だ。舌打ちをして携帯電話を懐から取り出す。果たしてまだ通じるのかは疑問だった。そもそもこの携帯電話にまだメモリが残っていたこと自体奇跡だ。
 頼むから通じてくれと祈りながらボタンを押す。機械音声ではなくコール音がしてくれたことにまずは安堵した。これなら最悪繋がらなくともアンパン魔人を唆してGPSから居場所を探すことができる。

 長いコール音が続いた。しかしやがて、ぷつんと途絶える。
 かわりに聞こえてきたのは不遜な。

『誰だか知らないが今は取り込み中だ。用なら山崎の奴に』
「……無事だったか」

 総悟、と名を呼びそうになって飲み込む。胸がつかえて苦しくなった。

『なっ……』

 土方さん? と電話の向こうで声がした。一瞬後にギン、と金属音が鳴る。交戦中なのだろう。ずいぶんと賑やかな音がした。

「襲撃されたと聞きましたので無事かと思いまして」

 土方はもう一度正しく言葉を言い直した。その間にも誰かを斬った音や銃声が続いている。かなりの人数に囲まれているのかもしれない。その状況でよく電話に出られたものだ。

『残念ながら、まだ生きていますよ』
「ただちに応援を回すよう副長に進言します。今どちらにおいでですか」
『それじゃあ襲撃地点においてきた連中を回収してください。狙いは私一人でしょうから、まだ生きているはずです』
「しかしカイザー、貴方は」
『私は大丈夫ですよ』

 今度は爆発音がした。あまりの音に一度耳から機械を遠ざける。側にあった窓から下界を見渡してみてもそれらしき煙や炎は見当たらなかった。小規模な爆発だったのか、あるいはもっと遠くにいるせいなのかはわからない。

『大丈夫です』

 電話の向こうで沖田はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

『だって私は誰にも弱みを見せてはいけないのでしょう?』

 沖田が笑っているような、そんな気配がした。きっとまた凪のような静けさを湛えた瞳をして。そこには意地など欠片もなくただ純粋さしか存在しない。そんな、声だった。そういう意味で言ったのではないのだと、訂正することすら忘れて息を呑む。

『心配せずともこんなところで死にはしません。……死ぬときはちゃんと、あなたの目の前で』

 あなたの手にかかって。
 とてもとても穏やかに、祈りを紡ぐような声で囁いた。まるでそれが幸せな願い事であるかのように。

「総悟……」

 知らず、忘れたはずの名を口にしていた。完全に無意識だった。次の瞬間銃声と小さな悲鳴が上がる。動揺が集中の糸を切ってしまったのだとすぐに悟った。

「総悟!」

 今度は意識して呼んだが電話の向こうから返事はなかった。通話は切れていないものの音は遠くてよく聞き取れない。近くにはもういないのかもしれない。一度だけ、囲めと知らない声が微かに聞こえた。

 何があったのだろう。相変わらず窓の外は静かなままで世界に変化はない。ついでに作戦室の様子も相変わらずだ。アンパンの神でも精でもなんでもいいからこの状況をなんとかしてほしい。

 当たり前のことなのだが、電話から聞こえていた声は土方のよく知る懐かしいものだった。別人などではない、ちゃんと沖田総悟の声だ。そしてきっと声だけではない。ただ土方が眼を閉じて拒絶して気づかないふりをしていただけで。本当は。

 いい加減に認めなくてはいけないのだ。二年の月日と共に全てを失ったこの手の内に、今も尚しぶとく残ろうとしている、たった一つのものを。

 あいつだけが、残っていてくれたことを。

「おい、返事をしろ総悟、総悟……!」
『……本当に、ひどい人ですね』

 やっと、声が返ってきた。いつの間にか少し音が減っている。それがどういうことなのかはわからない。距離を置いたのか倒したのか、できることなら後者がいい。

『やっぱりもう帰れないかもしれません。……だって、未練がなくなってしまいました』

 ずっとね、名前を呼んでほしかったんです。そう話す声は土方のよく知る子供のものだった。しかもとても眠そうに話すので身体が内側から冷えていく。これは怪我をした時の声だとも知っていたから。

「馬鹿言うんじゃねえ。帰ってこいよ。さっきお前言ってたじゃねえか……」
『土方さん。ねえ、土方さん。あのね、ミルクキャンディ買ってきてくれてありがとうございました』
「そんなの今はどうだっていいだろ!」

 もう未練がないなんて、ただ名前を呼んだだけでそんなのはあんまりだった。それだけのためだけに生きていたなんて、悲しすぎるではないか。今や全てを手に入れたようなもののくせに、そんな願いは小さすぎる。

「帰ってこいよ。あるいは迎えに行くから。だから、待ってろ。どんなに情けなくてもいいから逃げて、隠れるんだ。そうしたら今度はどんな命令だって聞いてやるよ……なあ、総悟?」
『……本当に、なんでも?』
「なんでもだ!」

 望むならいくらだって叶えてやる。どんなことだって、世界を壊してほしいのならそれでもいい。全身全霊で叶えるから、だからどうか。

『……二年前に戻ったみたいでさァ』

 昔の口調で、沖田はおかしそうに笑った。力のない声で土方さんと名前を呼ぶ。
 自分は今まで彼の何を見ていたのだろう。あの頃愛してやまなかった存在は、ちゃんとずっと傍にいたのだ。形は違えど、心はあの時のまま。

 遅すぎたこともちゃんと謝るから、だから待っていてほしい。






 それから間もなくして土方の進言により襲撃地点とGPSで割り出した沖田の居場所近辺に応援が派遣された。しかしその頃には既に全て片付いていて、たくさんの死体が転がっている。
 土方はそれら一つ一つから戦闘の足跡を辿っていった。沖田の戦い方も戦闘の時に好む地形もすべて熟知していたから、他の誰よりも先に見つけることは容易かった。

 壁に背を凭せ掛け、刀を抱くようにして目を閉じている。あちこちに小さな傷や大きな傷があり、特に脇腹は血でぐっしょりと濡れていた。

「総悟」

 迎えに来たよ。囁くと沖田はそっと目を開けた。うれしそうに、眩しそうに目を細めて笑ってみせる。土方さんと名を呼んだ。まるで昔と同じように。

「本当に、なんでもお願いを聞いてくれますか」
「いいよ。でもまずは手当てが先だ。病院へ直行だよ」
「一つだけでいいんです。だから今ここで、叶えてほしいんです」
「……わかった。何がいいんだ?」

 あのね、と沖田は口を開いた。真っ直ぐに土方を見上げて。それはとてもささやかな、暴君の命令とは程遠いちっぽけなお願いだった。

「……頭を、撫でてほしいんです」

 そんなことでいいのかと尋ねることはしなかった。それが沖田の一番の願いなのだということは顔を見ればわかったから。
 二年間、一度も触れることのなかった髪に手を伸ばす。まるで神聖な儀式めいていて心臓がドクンと鳴った。そっと、手を乗せると懐かしい温度と柔らかさがそこにはあった。

「……っ」

 ぼろりと沖田の瞳から大粒の涙が零れた。ただ頭に手を置いた、それだけのことなのに沖田は子供に戻ったように声を殺して泣き続けた。
 名を呼んだり、頭を撫でたり、そんなささやかなことをずっと求められ続けていたのだ。どうしてもっと早くに気づけなかったのだろう。くしゃくしゃと髪をかき混ぜて、優しく抱きしめる。他の奴らにとって彼は絶対的な冷血無慈悲の皇帝だとしても、土方はやはりそうは思えない。この大きな子供のどこがカイザーだというのか。

「総悟」
「……土方さん」
「お前のことを守りたいんだ」

 たとえ立場が変わろうと、世界がどんなに歪んでいようと、もうそんなことはどうでもいい。一番失いたくなかったものはちゃんとここにあるのだから。
 もう一人で泣かなくていいのだと、返り血で湿った頬に唇を寄せる。許してくれるならどうか、今度こそ守らせてほしい。貴方のこころを。





2011/07/08