さよならプラトニック もっと泣くものかと思っていたけれど、あんまり泣けはしなかった。年が明けてからは自由登校だったしセンター試験や本試験が待ち受けていて会う余裕なんか全然なくて、そんなのわかりきっていたことだったから俺にとっては二学期の終業式の方が最後の日だったのかもしれない。 あの日の晩の方がよっぽど泣けた。もうきっと二人で遊びに行くことなんてないのだろうと思ったらもう止まらなかったのだ。泣きすぎて次の日俺の顔を見て親がびっくりしたくらい。 年が明けてからはちっとも会うことがなくて、昨日の卒業式リハがあけおめだった。どこの大学に行くことになったのか教えてもらったはずなのにあっという間に忘れてしまった。きっとそれくらい俺は自分に打ちのめされていたんだと思う。 この二ヶ月で心の整理はできていたつもりだったのに、顔を見てしまったら駄目だった。やっぱり好きなんだ。卒業式の答辞も校長や知らない偉いさんのありがたいお話もみんな右から左で、ずっと久しぶりに見た顔や声ばかり思い出して、俺の名字があ行でなかったなら、本田とか山田とかだったなら今も後ろ姿を目に焼きつけることができるのになんて、馬鹿なことを思っていた。 そうして完全に上の空で昨日初めて歌詞カードを渡された定番卒業ソングを口パクでやり過ごし、二学期から置きっぱで大変な臭いの上履きをぱかぱか引きずり卒業証書を忘れて退場した。俺のだけ後でパイプ椅子の下から出てきて、最後のホームルームで一人だけ二度目の授与式をやらされた。恥ずかしい思い出。 そんな高校生活最後の日も、もう終わろうとしている。後輩やクラスメートとの別れを惜しむ時間もとうに過ぎ去って、みんな今度は学外でお別れ会やらパーティーやらをするため校門を出て行った。 俺も予定はないけれど帰らなくてはいけない。こんな時間まで残っていたのは感傷でもなんでもない。帰りかけたところで卒業証書を机の中に突っ込んだままなことを思い出して引き返してきたのである。このまま放って帰ろうかと三回くらい真剣に悩んだけれど、今度は玄関前で授与式やらされるんじゃという高杉の冗談を真に受けてしまって放っておけなくなった。それはさすがに恥ずかしすぎる。まさかまだ登校することになろうとはと、爆笑する奴らと同じことを俺も思ってしまった。馬鹿だ。 教室は当たり前に誰もいなくて、誰かが書き残して行ったらしい黒板の「今までありがとう」という落書きが夕陽で黄色く照らされていてなんだかちょっと切なくなった。今度こそ、もうこの教室に戻ることはないだろう。卒業証書は持って帰るけど、叶うなら三年間秘め続けた恋だけはここに置いて行きたかった。 新しい生活が始まれば忘れられるのだろうか。土方さんのいない学校生活なんて今はまだ想像することもできないのに。あと一月もしないうちに想像できない未来が現実になるのはちょっと、怖い。俺はちゃんと一人でも前を向いていられるだろうか。そんなことを、ふっと考えて泣きそうになった。俺はまだ恋をしているのだと気づかされて苦しくなる。 「総悟?」 不意に呼ばれた名前よりもその声に、俺は弾かれたように振り返った。幻聴にしてはリアルすぎて、心臓がぎゅって鳴いた。 教室の後ろのドアに、土方さんが立っている。まさかまだもう一度、この場所で会えるなんて。それは「うれしい」よりむしろ、ずっと。その反対。 「土方さん……」 「何してるんだ?」 「その、卒業証書忘れて」 「またかよ」 しょうもなさそうに土方さんが笑う。俺も一緒につられて笑った。 「あんたは何してんの」 「ああ、鞄取りに。……今までちょっと匿われてた」 そういえば、戻る途中すれ違った女子たちが会えなかったと嘆いていたっけ。こんな時間まで隠れなきゃいけないほどモテるっていうのは一体どんな感じなのだろうか。周りが羨ましがるほど本人はうれしそうではなくて、案外そんなものなのかもしれない。過ぎたるは猶及ばざるがごとしだ。 「土方さんはきっと間違いなく服のボタン全部むしりとられるだろうと楽しみにしてたのに、つまんねーの」 「つまんねぇって……これ近所の子にやるらしいから欠損させるなって念押しされてるんだよ」 言いながら土方さんは自分の席に残ったままの鞄を手に取ろうとして、なぜかとても煩わしそうに顔を歪めた。見ると鞄は勝手に開けられていて、手紙やらラッピングされた包みやらがごちゃっと詰め込まれている。ここまでくると執念が感じられて、羨ましさより若干怖い。女というのはすごい生き物だ。俺にはこんな真似はできない。したいのかどうかもよくわからないのは、やはり性染色体がもたらす差なのか。XとYの神秘だ。 「帰ろうぜ」 荷物が増えたと溜め息を吐き、土方さんはチャックの閉まらなくなった鞄を持ち上げた。教室を出て行く背中。きっとこれが最後だなんて、この人には大したことではないのだろう。終わりはただの過程なのだ。はじまりへの。 俺は彼女たちのようにはできない。でもこれで本当に会うことはないのだと、最後のチャンスなのだと、思ってしまったらもう駄目だった。たとえこれから一緒に帰る人生最後の機会を失ったとしても、それでも伝えたかった。俺の、三年間の思いを。そうしないと終われないのだ。彼女たちが鞄に勝手に心を詰め込んで押し付けたように。 俺も。 「俺、土方さんのことが好きだった」 口にしてしまったら胸が痛くて息が詰まった。誰かが閉め忘れた窓からまだ冷たい春風が吹き込んで、俺たちの短い髪を揺らす。初めて会ったあの日にもこんな風が吹いていただろうか。思い出せない。 「俺もだよ」 口にしてしまったらもう後戻りできないと、この三年間信じていた。しかしそんなことは全然なかったんだ。結果はもっと、残酷で、ある意味では救いのある。 振り返った土方さんの笑みはあんまり自然すぎて、いつも通りでなんだか無性に泣きたくなった。こんなにも伝えたい思いがあるのに、言葉にしてみても無駄だったのだ。届かなかった。好きなのは当たり前なんだ。俺たちはいつも一緒につるんでいたのだから。 でもそうじゃない。そうじゃないんです。土方さんにはちっとも伝わらなかったけど。 「土方さんはなんにもわかってない」 「わかってるよ」 「わかってない!」 この好きは違うのだ。もっと根深くて醜悪で、純粋な。 くしゃりと歪んで、泣きそうになるのを堪える。今ここで俺が泣いたらきっと土方さんの中には泣き顔の俺が上書きされてしまう。そんなのは嫌だ。だから、唇を強く噛む。泣いたら駄目だ。泣かなければせめて、一緒に教室を出ていつもの分かれ道まで二人で帰れるんだ。だからどうかお願い。 「わかってるよ」 もう一度、土方さんは繰り返した。たくさんの贈り物の入った鞄を床に捨て、俺の前まで戻ってくる。ぶちまけた中身の一つが俺のぼろぼろの上履きにこつんと当たった。 土方さんはそれらを拾おうともせずなぜか俺の真後ろの机に手をつくから、近さに仰け反った背中がガタンと同じ机を鳴らした。バランスを一瞬見失った背を温かい手が支える。 土方さんが、近い。ものすごく。 「な……」 唇は触れなかった。けれど吐息が触れて、本当に重なったかのような錯覚をする。瞬きを忘れた睫毛が今にもぶつかりそうだった。見つめ合う瞳の中に今俺は映っているのだろうか。近すぎて、わからない。 「こういう好きだろ?」 離れる瞬間そう言ったから、もしかしたらその拍子に掠めるくらいしたのかもしれなかった。後になってその可能性に気付いたわけなのだが、この時はもう完全にキャパオーバーでなんにも考えられなかった。実際のところ触れたのかどうか、記憶を手繰り寄せても答えは出ない。ただ引力のような、そんな見えない何かを強く感じていた。 ギシリと机が鳴いてハッと我に返る。土方さんが遠ざかって正常な距離の位置へと戻る。俺はもう背後の机がなかったら立っていられそうになくて、寄りかかったまま手の甲で自分の唇を確かめた。なくなるわけなんかないのに、どうしてだかそうしたくなったのだ。しかしそれを土方さんは違う意味に取ったのかもしれない。俺のことを気遣うように、顔を覗き込んで問う。 「違ってた?」 「ち、がわ、な……」 舌がうまく回らない。結局俺は小さい子みたいに首を大きく横に振った。肝心な時にこの口は役に立たない。嫌だったんじゃない。ただ、すごくすごく、びっくりしただけ。 土方さんはそれから何も言わなかった。困ったような、途方に暮れたような顔で恐る恐る俺の髪に指で触れた。どうしようか、躊躇っているのがわかった。 二人とも知っているのだ。うまくなんかいきっこないって。だって俺たちの道は今日で別れる。今ここで無理に繋げてみたところで近い将来どちらかが泣くことになるだろう。せめてあと一ヶ月、いや一週間でも早く確かめ合っていたなら、心に残る思い出くらい作れたかもしれないけれど。 「土方さん、行きやしょう」 帰ろう、とは言えなかった。ありがとうもさようならも、口にしたらきっと後戻りできない道を選んでしまいそうで。俺はそれしか言えなかった。 「……そうだな、行くか」 きっと今の俺は土方さんと同じ顔で笑っているのだろう。涙を堪えているのを知られたくなくて、顔を上げられないからわからないけれど。 これくらいなら許されるだろうかと、迷いに迷った末に左手をそっと伸ばしてみた。大それたことなど望まない。ただ一度きりでいいから、その手に触れてみたかった。この三年間夢見ていたんだ。 土方さんは何も言わずに自分の指を絡めてくれた。繋いだ手は温かくて、その感触も温度も死ぬまで忘れたくなくて、確かめるように強く握りしめたら土方さんも同じだけ返してくれた。 誰もいない最後の日の教室で、俺たちは手を繋いだ。教室を出るまでのつもりが昇降口までになって、靴を履き替えてからもまたうっかり指が触れて繋ぎ直され、校門を出るまでと今度こそ約束をした。 校門を出たら本当に離せるだろうか。目の前に見えるゴールの脇にはまだ蕾すらつかない桜の木々が並んでいる。最初の日はもう記憶に遠く、思い出せそうになかった。でもきっと今日この瞬間のことは、一生忘れないだろう。 俺たちは未来へ行く。 2012/03/25 |