ノスタルジア

 目蓋の向こう側から音もなく突き刺してくるような日差しを感じて、いやいやながら目蓋を半分だけ持ち上げた。手探りでその辺に投げた気のする携帯を探り当て、サブウィンドウを見てみれば時刻は現在11時26分。側面のボタンをいつもの癖でプッシュすれば日付も一緒に表示されて、今日は月曜日だと教えてくれる。

「ジャンプの発売日……」

 沖田が今日の朝一番に発した言葉はそれだった。起き上がる前にメールと着信を確認しようとしてこいつは半月前から料金滞納でただの電子手帳と成り果てていたことを思い出してやめた。いい加減にそろそろ払わないと。しかし払おうにも金がない。バイトをクビになって早二ヶ月。

 上を向けば知らない天井で、起き上がれば知らない部屋で、ベッドの横に立っているのも知らない女。
 寝起きでいまいち動きの悪い頭をだらだら動かして、昨日の夜を思い出す。たしかいつものようにふらふらしていて、その辺で会った女の家に飯目当てで行ったような。行くまでの道のりを思い出し、はっとする。

「しまった。この辺本屋ねーじゃん」

 今日の朝二番に発した言葉はそれだった。しかも女の顔をぼんやりと見上げながら。
 女が口を開きかけたが面倒なのでそれは無視して、沖田は脱ぎ散らかした服をかき集め、のそのそと着替え始めた。

 着替え終了。何よりジャンプが先なので朝食は省略。

「じゃ、そういうことで」

 今日の朝三番に発した言葉がそれで、やっと声をかけてもらえたというのに女はひどく嫌そうな顔をした。ところで名前はなんだったか。そもそもこの人はどこの誰だ。ここはどこだ最寄り駅はどこだ。
 聞いたらたぶんもっと嫌な顔をされるような気がしたので聞くのはやめて、沖田は高校時代からずっと使い続けている中身はほとんど入っていない学生かばんを引っ提げてベッドを降りた。なんとなく記憶の片隅に残っている玄関へ向かって歩く。

「ちょっと、ソーゴ。もう帰っちゃうの?」
「だってジャンプの発売日だし」
「次はいつ来るのよ」
「来ねぇよ。なんで来なきゃなんないわけ」

 女の問いの意味がわからず、沖田は振り返って首を傾げた。

「俺はあんたがただで飯食わしてくれるっていうからついて来ただけで、一緒に寝たのだってあんたが誘ってきたからだろィ。家賃代わりみてェなもんさ。あんたが好きだからじゃねぇよ」

 女はまだ何か言おうとして、しかし何も言わずに顔を歪めて唇を噛み締めた。たぶん怒っているのだろう。包丁でも持ち出されたら迷惑なので早々に立ち去ろうと沖田は女を置いて玄関へ行き、行儀悪く転がっている自分のブーツに足を入れた。

「でも飯はうまかった。ごっそさん」

 マンションのドアを閉める前に、その言葉だけ残していく。それは本当。昔から本音しか言わないためしばしば疎まれるのだが、相変わらすその癖は直っていない。
 それからエレベータではなく階段をカンカンと軽快に踏み鳴らし、足早にマンションを後にした。


 町を彷徨い風の吹く方向に足を進め、小一時間ほどで駅を発見した。初めて見る名前。なんでこんなところにいるのか。そもそも大学と自宅はどの駅で降りればよかったか。駅員に聞こうにもずいぶん行っていないせいで大学名すら記憶の彼方だ。

 昨日少し飲み過ぎたのか軽い頭痛を覚えながら電車に乗って、ジャンプを買うなら駅の売店やそこらのコンビニでよかったことに気づいたころにはもうドアは閉まって走り出していた。
 仕方ない。もう乗ってしまったし適当なところで降りればいいか。いい加減なことを考えて電車に揺られているうちにうとうとし始めて、浅い眠りに落ちていった。
 最近は毎日が日曜日。だらだらとした下らない日常という名前の。


 電車のアナウンスが、覚えのある駅の名を口ずさむ。それはまるで優しい歌のように響き、眠っていた沖田の脳を揺さぶり起こした。嘘だろと思いながら窓の外を見てみれば、見知った景色がそこにはあった。

 どれくらい電車に揺られていたのかはわからないが、たぶんずいぶん遠くまで来たのだろう。それを実感するのに十分なだけの金が掛かった。現在所持金残り34円。ジャンプが買えない事実に少し唖然とする。

 金がなくて電車に乗れない帰れない。そもそも帰ろうにも少し前にアパートを追い出され、新しく引っ越したはずのアパートは大学共々どこにあったか思い出せず、帰るに帰れないわけで。ついでに知らない人の家を点々とするのもそろそろ飽きてきた。
 歩きながら考えよう。明日は明日の風が吹く。小腹が空いたなと思いながら、見知った道をのんびり歩き出した。

 この町は変わらない。小さな公園も、交差点の和食屋も、角の駄菓子屋も、ショッピングモールもみんなそのままだった。
 今ではこんなに懐かしいのに、あの頃はそれが当然だと思っていた。毎日好き勝手して人困らせたり楽しませたり、大暴れして怒られたり。

 あの頃は本当に毎日が楽しくて、一分一秒無駄にすまいと全力で遊んでいた。今みたいに24時間という途方もない時間をどうやって消化しようかなどと考える日はたぶん一日だってなかった。時には退屈だとぼやいても、それはそれで退屈だと騒ぐことに忙しかったのだ。
 毎日がきらきらしていて、宝石のようだった。それともこれは思い出を美化しているだけだろうか。

 どうせならこのまま高校に顔を出してみようか。そう思うまもなく気がつけば足はそちらを向いていて、もう既に自分がそちらを目指していることに気づいた。頭は忘れてしまっても体はちゃんと覚えている。この道を歩いて、または自転車の後ろに跨って、毎日あの高校に通ったのだ。

 生徒人気は高いのに教師人気はボロクソなあの担任は、まだ左遷されずにしぶとく残っているだろうか。帰国を嫌がって父親の髪を残らず引っこ抜いた留学生はあの後どうしたのだろう。家出したところを捕獲され、そのまま担任の家に居ついてしまった眼帯野郎はまだいるのか。ミントンの世界選手を密かに夢見ていたくせになぜかジャーナリストとしての腕を買われて出版社からスカウトまで来たあいつは結局どうしたのか。

 思い出せば一つ一つが懐かしくて、本当にあの頃は楽しかった。今は行動範囲は広がったけど前よりずっと生活は単調になって、毎日が味気ない日常という下らないものに取って代わってしまった。


「総悟? 何してんだお前」


 後ろから声をかけられて、足を止める。そういえば高校生のくせに一人暮らしをしていて、その割に何一つ家事のできない馬鹿がいたっけ。

 思い出して振り向けば、予想通りの顔があった。もうずいぶん会っていないが少し顔立ちが大人っぽくなった気がする。なんていうか、高校生の顔じゃなくて大学生の顔をしていた。自分はもっとつまらない顔をしているのだろうなと、自分の顔をおぼろげに思い出そうとしてそれすらも忘れている事実に苦笑したくなった。

「これはお懐かしいことで。元気してますかィ土方さん」

 長らく使っていなかった沖田流の奇妙な敬語が自然と口をついで出る。そもそもどうして自分が同い年のはずの相手に敬語で話すようになったのか、理由はたぶん些細なことだったのだと思うのだが、もう思い出せはしない。

「まぁな。お前、少し背ぇ伸びたんじゃね?」
「あ、たぶんこのブーツ厚底だからでしょう。そんなに伸びてませんぜ残念ながら」

 トントンとかかとを踏み鳴らして沖田は笑った。こうして向かい合ってみれば、前より少し目線が近い。ブーツのせいだとわかっていても、それすらも時の流れのせいのような気がしてしまった。

「で、何してんだお前。たしかこの辺じゃないよな大学」
「ジャンプ買おうと思ったんですが気がつけばこんなところに」
「なんだそれ。お前らしいっつーかほんともう馬鹿だろ。コンビニで買えるじゃん」

 土方が笑う。その仕草が昔のままでなんだか嬉しくなった。少しだけ昔に時間を巻き戻したような錯覚を覚える。
 それでも時間はきちんと正確に時を刻んでいて、チクタクチクタク言いながら沖田の心を置き去りにどんどん背中を押して歩かせるのだ。

「この町は変わりませんね」

 この町も、この人も変わらない。俺はどんどん変えられていくのに。時間という目に見えない奇妙で残酷な存在に。

「んなことねぇよ」

 事も無げに土方は言った。

「お前が好きだった駄菓子屋、最近ガシャポン始めたんだぜ。公園の遊具はペンキ塗り替えたし、二丁目の交差点の和食屋なんざ潰れちまった。今は外装はそのままになぜか入ればイタリア料理が出てきやがる。くそ、なんなんだあの店は」

 たぶん外装に騙された口なのだろう。苦々しげに土方は舌打ちした。
 どこも全部きちんと見てきたはずなのに、沖田は少しも気づかなかった。言われてみれば駄菓子屋の外にはガシャポンの台が並んでいたし、遊具も色が違ったかもしれない。和食屋は地元人が騙されるのだから沖田にわかるわけもない。

「なーんだ。結構変わってんですねぇ」
「おうよ。あ、でもあの担任は相変わらずしぶとく給料泥棒してるみてぇだぞ。この前飲み屋で偶然会ってたかられた」
「そりゃあよかった」
「よくねぇよ教師が元教え子に金せびるか?」

 変わっているのが自分だけではないことに少しだけほっとした。
 きっと誰もはじめから取り残されてなんかいなくて、沖田が自分だけ変わってしまったと思ったのはたぶん昔を忘れていただけなのだ。

「ところで土方さん腹減ったからなんか奢ってくだせェ」
「は? お前バイトとかしてねぇのかよ。そういやお前メールも通話も繋がらねぇんだけど」
「バイトは一週間でクビになりやした。なんなんですかねぇあの店は。ちょっと毎日寝坊したくらいで。携帯はそんなわけで料金未納でさァ」
「お前それクビになって当たり前だろよ。じゃあ年賀状が届かねぇのはどういうわけだ」
「アパート変えたんです。つーか追い出されたんです。理由は忘れやした。で、新しく引越したんだけどふらっと外に出たらそのまま帰り道も最寄り駅も忘れちまって入居以来一度も帰れてません。迷子ですって交番のおまわりさんに言ったら鼻で笑われやした」
「馬鹿だろ。前から思ってたけどお前、筋金入りの馬鹿だろ」
「何言ってるんですかィ。人間誰でも10や20の欠点があってこそでしょう」

 呆れながらもやはりおかしいのか、土方は沖田の話を聞くなりその肩を叩いて声を立てて馬鹿笑いしはじめた。こんなに笑うこの人は珍しい。久しぶりに会って珍しいものが見られた。笑われたのは少々腹立たしいもののやっぱり自分でもおかしいと思ったので、沖田は一緒にゲラゲラと笑いこけた。

 その後もアパートを追い出された理由やバイト先での珍プレイを聞き出され、自分の通っていた気のする大学の名前と場所も忘れたことを話したあたりで土方は笑いを通り越して哀れむような目で見てきた。今度は蹴り飛ばしてやった。

「まあ、あれだ。どうせだし飲みに行くか。奢ってやるよ」
「酒より飯食いたい。土方さんのアパートにしやしょうぜ」

 外食も酒ももう飽きた。そんなものより久しぶりに土方の部屋でくつろぎたかった。今にして思えば高校時代からずっと自分の部屋より土方の部屋の方が落ち着けたような気がする。

「俺んち何にもねぇよ」
「いいです俺が作るんで。久々に自分の手料理が食いたくなった」
「じゃあまずスーパーな。いつものとこでいいか?」
「おっけー」

 いつものとこ、という響きが嬉しくてつい顔がにやけてしまった。
 どうせ帰る金もないしこのまま当分居付いてしまうのも悪くないかもしれない。家事さえやれば土方も文句は言わないだろう。そうだそうに決まっている。勝手に決め付けて勝手に納得する。
 気が向いたら明日こそ高校に顔を出してみようか。土方も暇だったら一緒に連れて行こう。それでもってまたあそこの屋上で昼寝するのも悪くない。


 途方もなく長かったはずの24時間が、沖田の中でまたきらきらと輝きを帯びはじめる。
 今日はこれからどうしようか。明日は何をしようか。考えているだけでも楽しくて、愉快なリズムで時計がチクタク時を刻む。一分一秒無駄にすまいと、沖田はその時計の音を追いかける。




 この二人のことだから大学も一緒なんじゃないかという気もしますがもしばらばらになったらたぶんこんな感じじゃないのかなと。そして同棲始めて事実婚状態に。土方は絶対文句言わないと思う。

06/01/03