名前を呼んで2

 話せるようになりたいか。

 昨日はお医者も近藤も土方も総悟に同じ質問をしたが、実のところ総悟はよくわからなかった。
 言葉を使って人と話したのなんて気の遠くなるほどずっと昔のことで、それがどんな気持ちのするものだったのかなんてもう覚えていない。だから話せるようになりたいかと尋ねられても、話せるとどれだけ楽しいことがあるのか総悟にはわからないから判断ができないのだ。

 今日はまだ土方は来ていない。近藤は少し元気になって、一緒に朝ごはんを食べた。猫にもまたミルクをあげた。
 猫はまだ子猫だからよく眠る。総悟もよく眠るほうだが子猫はもっと眠るのだと土方が言っていた。
 でも総悟は子猫とたくさん遊びたくてうずうずしていて、寝ている子猫を起こしたくてたまらないのをずっと必死に我慢していた。早く起きないかなって寝顔を見ながらずっと考えていて、起きたらまず何をしようかって思って、ずっとわくわくして待つのだ。

『ただ俺も近藤さんも、お前の声が聞けるの楽しみにしてたんだぜ?』

 昨日の土方の言葉を思い出す。
 土方と近藤も、今の総悟とずっと同じ気持ちだったのかもしれない。
 いつ声が聞けるのかとずっと待ち続けて、待ち続けて、今も変わらず待っている。もう半年も。

 自分は子猫が起きるのを半年も待っていられるだろうか。
 きっと毎日毎日こうして子猫の寝顔を眺めて、いつ来るかわからないその日をいつか本当に来るのかと不安な思いで待ち続けるのだ。半年も。それともそれ以上? そんなことに耐えられる?

(はなせたほうがいいのかな)

 土方と近藤が喜ぶのなら、話せるほうがいいかもしれない。
 今までずっとどちらでもいいと思っていたが、このとき総悟は少しだけそう思った。

 口を開いて、声を出そうとしてみる。それでも喉を通るのは空気だけで、音はどこからもやってこなかった。どうすれば声を出せるのだろう。総悟は不思議で仕方なかった。



 今日は土方と子猫をどこか悪いところがないかお医者に見せに行く約束をしていた。総悟ははじめいつものお医者のところかと思っていたが、あそこは人間しか診察してくれないらしい。不便な世の中だ。

 土方は来るといっていた時間より一時間も遅く来た。土方は今日も眠そうだった。土方は何日かに一度こうして眠そうにやってくることがある。

「いや寝ないで来るつもりだったんだが、終わってからちょっと時間余ったからぼんやりしてたらついうとうとしちまって……いやまあ細かいこと気にするなって大人の事情だ大人の事情」

 ろくに寝ないで何をしているのかと尋ねても、いつも土方は教えてくれない。
 大人の事情は子供が知ってはいけないものらしい。結局今日も何をしていたのかはわからず仕舞いで、曖昧に誤魔化されて二人で動物用のお医者のところへ地図を頼りに歩き出した。


 それほど早い時間帯でもないというのにずいぶん静かだった。辺りにいるのは総悟と土方と子猫だけで、他には人影も猫影も犬影もない。

「っかしいな。たぶんこの辺だと思うんだが」

 どうやら迷子らしい。土方はその辺に腰を下ろし、メモと睨めっこして首を捻っていた。さっきから同じところをぐるぐるしている。少なくともこの景色はもう三回は見た。
 沖田の目から見てもこのあたりにお医者はいそうになかった。というより人がいそうにない。窓ガラスが割れたビルや門が崩れている家などばかりで、どちらかというとお化けでも出てきそうだ。そんなところなので道を尋ねようにも人っ子一人いないし、既に戻ろうにも戻れなくなっている。

 総悟も土方の隣に座ってメモを覗き込んだが全然わからなかった。何も知らずに子猫は呑気に総悟の腕の中でまたすやすやと眠っている。

「疲れたか? 猫持つの変わってやろうか」

 少し疲れてはいたけれど、子猫を起こすといけないので総悟は首を振った。総悟は寝ているときに起こされるのが嫌いだ。近藤が人にされて自分が嫌なことは他の人にもしてはいけないと言っていたから、たぶん子猫を起こしてはいけないのだ。

 土方は再びメモに視線を戻したかと思うとあちこちに目をやって、地図と何度も見比べていた。
 その様子を観察していた総悟はふと思いついて、猫の体重を片腕と座った足の上に預け、そろそろと片手を離した。そしてその手を土方の喉に伸ばしてみる。

「ん? なんだよ」

 土方が喋ると喉が微かに震えた。土方が迷子になって頭を悩ませている間、総悟はずっとどうすれば声が出てくるのかと考えていた。それでもやっぱりわからなくて、触ってみたら今度はどうすれば喉は震えるのかと不思議に思った。

 自分の喉にも触れてみる。口を開いて声を出そうとしてみるが声はやっぱり出てこなくて、喉は静かなままだった。死んでいるみたいだ。
 いろいろやっても声が出てこないのがだんだん苛立たしくなって、総悟は自分の喉を力いっぱい殴ってみた。痛くて噎せた。じわりと目に涙が浮かんだ。これではただの馬鹿みたいだ。
 土方は総悟の行動に怪訝そうに眉を寄せて、噎せる背中を軽く叩いた。

「総悟、お前さっきから何一人で馬鹿なこと……あっ」

 噎せて膝が大きく揺れたせいで、子猫は目を覚ましたのだろう。ひょいと膝から飛び降りてよちよち歩き出したかと思うと、突然走り出してしまった。土方が読んでも少しも振り返らずにどんどん進んでいく。
 こんなところではぐれたら大変なことになる。総悟は慌てて子猫を追いかけた。少し遅れて土方も後を追う。

 誰もいない通りでも信号はまだ機能していて、今までずっと青だった歩行者用の信号が赤に変わった。遠くから車のやってくる低い音がする。さっきまでずっと通らなかったのに。

 子猫はまっすぐ道路へと向かっていた。車が来ることにも気づかず、楽しそうな足取りで。
 このままでは車にはねられる。総悟は子猫を助けようと自分も道路に飛び出そうとした。

「っぶねぇだろこの馬鹿!」

 強い力で肩を掴まれてその動きを阻まれる。逃れようとしたけれど力では敵わなくて、力の加減ができなかったのだろう、総悟はそのままの勢いで後ろに吹っ飛ばされた。

 吹っ飛ばされながら見たのは道路を歩く子猫と、少しもスピードを緩めずに直進してくる車と、さっきまでの総悟と同じように道路に飛び出した土方の姿。

 声が出せたら、きっと叫んでいただろう。

 耳をつんざく急ブレーキの音。次の瞬間には子猫を抱きしめた土方が鞠のようにおもしろいくらい簡単に吹っ飛ばされていた。

 総悟はしばらく呆然としていて、どうして自分はこんな夢を見ているのだろうと思った。
 しかし受身を取るのを忘れて何かに激しくぶち当たった背中が痛んで、これが夢でないことを総悟に教えてくれる。
 我に返った総悟が駆け寄ろうとしたとき再び車が動いて、猛然とバックするその様はまるでビデオの巻き戻しのようで、しかし地面に倒れた土方は一向に巻き戻らなくて、あっという間に車はいなくなってしまった。

 絶望的な思いで車を見送って、総悟は土方に駆け寄った。
 肩を揺さぶるが返事はなく、目は固く閉じられたままだ。その腕の隙間からみゃあと鳴いてところどころ血に濡れた子猫が顔を出した。しかし抱き上げてみると無傷である。土方が守ってくれたのだろう。

 でもその土方は動かない。

 人は血がたくさん出たら死ぬ。死んだら心臓が止まる。
 いつか教わったことを咄嗟に思い出して、総悟は土方の左胸に手を押し付けた。動いている。ひとまずほっとして胸を撫で下ろし、すぐに思考を切り替えた。

 たすけなくちゃ。

 それにはまずどうしたらいい。お医者に見せないと。でも総悟と子猫では土方をそこまで運べない。
 誰かを呼んで来よう。総悟は自分が今すべきことをそう判断し、子猫を抱き上げた。土方をここに放置しておくのは心配だけれど他に方法はないから、とりあえず車が消えていったほうへ道路沿いに走り出した。






 子猫を抱いているせいでうまく走れなくて、いつもより余計に疲れた。息が切れて苦しい。でも足を止めたくない。止めてはいけない。誰か見つけるまでは。

 10分くらい走ったかというころ、総悟はやっと一人の人間を見つけた。大人の男で、たぶん土方や近藤と同じくらいの年だと思う。銀髪の、だらっとした感じの男だった。

 肩で息をしながら総悟は男の前に立ちふさがった。男は足を止め、怪訝に総悟を見下ろしてくる。

「ん、なんだ坊主。迷子か?」

 総悟は力いっぱい首を振った。それから今必死に走ってきたほうの道路を必死に指差して、土方のことを伝えようとした。男は面倒くさそうに総悟が指差す方向を振り返って、しかしすぐに向き直る。

「あーはいはい。あっちに家がある気がするのね。でも家の場所がわかってる子は迷子って言わないから。だからきっと君の家はあっちにないよ。うん」

 駄目だわかってもらえない。しかも相手の言っていることがよくわからない。
 それでも総悟はなんとか意思を伝えたくて、同じ動作を繰り返した。せめて何か書くものがあれば筆談できたのだが、今日は子猫以外何も持っていない。男も筆談に使えそうなものは見たところ持っていなさそうだった。

「まあそんな泣きそうな顔しなさんな。ついでだからお巡りさんのところにでも届けてあげるよ。落し物って一割もらえるんだっけ? あれでも一割ってこの場合何よ。俺的にはパフェとかそれ系がいいんだけど」

 男が手を伸ばす。総悟は反射的に逃れようとしたが男は総悟をあっさりつかまえて抱き上げてしまい、そのまますたすたと歩き出した。総悟が来たのとは全く正反対の方向に。
 慌てて暴れるが男は思ったより力があるのか総悟の抵抗にびくともしなかった。手足をばたつかせようと大して気にしていない風で前に進んでいく。

「いやーでもよかったね見つけてくれたのが俺みたいないい人で。最近は物騒だからこんな町外れを子供が一人で出歩いてちゃ駄目だよー。片目のこわーい攘夷派の人とかあの辺見境ないから」

 こんなところで浚われかけている場合ではないのに。こうしている間にも土方は死んでしまうかもしれないのに。
 それなのに総悟には助けを求めることができない。話せない。今まで話せないことをこれほどまでに呪わしく思ったことはなかった。

 助けたい。死なせたくない。だから、話したい。

 このとき初めて、総悟は心の底から話したいと思った。言葉で意思を伝えたいと願った。
 今までは話せなくても時間をかければなんとかなると思っていたけど、今はどうしても話せないと駄目なのだ。話せないと総悟は大切な人を失ってしまうことになる。

 口を開く。動け動け。必死に自分の喉と口に言い聞かせた。

「た、すけ、て。おねが……っ、おねがい、だか、ら」

 掠れたような、注意しなければ聞き取れないような音の集まり。とても声だなんて呼べない代物だったが、それでも少しずつはっきりとそれらしい音を紡ぎだしていく。
 風に吹き消されてしまいそうな声だったのに総悟の祈りが通じたのか、奇跡的に男の耳はそれを捕らえていた。男の足が止まり、抱えていた総悟を地面に下ろして自分は前にしゃがんで視線を合わせる。

「なんだ迷子じゃないのか。とりあえず落ち着いて手短に話してみ。お兄さん場合によっては力貸しちゃうよ?」

 この数年後になんとも言い難い奇妙な縁で再会することになろうとは、このときはまだお互い夢にも思っていなかった。しかしそれはまた別の話。






 初めは人攫いか何かかと思ったのだが男はそういう類の人ではなかったらしい。総悟が拙いながらも一生懸命説明したらすぐに救急車を呼んでくれて、総悟と子猫を抱えて土方のところまで走り、救急車が到着するまで応急処置を施してくれた。
 男は救急車に土方と総悟と子猫を乗せるとドラマの再放送が始まるからと言ってふらりと帰ってしまい、総悟は後でお礼どころか名前も聞いていなかったことに気づいた。

 とにかくその男のおかげで土方は一命を取り留めて、応急処置がよかったのもあって思ったより早く回復しそうだとのことだった。
 それでも土方はなかなか意識が戻らず、病院から近藤の家に移されてから(入院させる金がないらしい)ずっと眠っていた。傍には近藤がずっとついていて、総悟は見ていられなくて部屋の外で待っていることにした。



 土方が起きるまでここで待っていようと、がんばってここまで運んできた布団の上でいつの間にか子猫と一緒にうとうとしていた。
 あれからどれくらい経ったのだろう。総悟は近藤の声でハッと目を覚ました。土方の意識が戻ったらしい。

 慌てて跳ね起きて障子を開けようと手を伸ばしたところで障子が勝手にがらりと開いて、近藤が顔を出した。

「総悟、トシが目を覚ましたぞ。俺はちょっと飯を取ってくるから」

 ほっとした顔で近藤が言うので総悟も一緒にほっとして、こくんとそれに頷いた。
 近藤が行ってしまい、障子の隙間から顔だけ覗かせたら土方と目があった。本当に起きているとわかってもう一度安心した。あの時は本当に死んでしまうのではないかと思ったのに、今では元気とはいえないかもしれないがそれでも一応動いている。目を開けて、息をしている。

 安心したからとりあえず子猫を下ろしてやって、心配をかけた罰として渾身の飛び蹴りを食らわせてやった。土方が起きたら絶対やろうとずっと決めていたのだ。
 起きてばかりでぼんやりしていた土方は受身の一つも取れずもろに顔面に蹴りを食らって総悟ごと後ろに倒れこみ、何か呻きのようなものを上げたが無視することにした。言いたいことはこっちにだってたくさんあるのだ。半年分も。

「このばか! アホ! まぬけ! あんぽんたん! えっとあと、んっと、このインポテンツ!」

 倒れた土方の上に乗ったまま思いつく限りの悪口雑言を浴びせかけた。その間土方はぽかんとしていて、それからすぐに傷口が痛んだのか表情をわずかに歪ませた。総悟はやっと相手が怪我人なことを思い出して土方の上から降りる。

 すっかり総悟に懐いて膝に乗ってきた猫を抱きかかえ、ちょこんと土方の隣に座った。
 それから3秒くらい奇妙な沈黙が流れる。言うことを言ってしまったらすることがなくなったので総悟は土方を見上げていた。半年分の言葉はたった30秒で全て消化されてしまった。
 土方はといえばしばらく池の鯉みたいに口をパクパクさせていた。少し前までの自分はこんな風だったのだろうかと少し思ったら胸に苦いものがこみ上げてくる。

 やがて土方はハッとして、唐突に怒り出した。

「てめぇ総悟、一体なんの根拠があって不能呼ばわりしやがる! つーかどこで覚えてきたそんな言葉!」

 フノーってなんだろうと思いつつ、総悟は少し首をかしげたまま答えた。話すことに慣れていないせいかまだ少したどたどしい。

「むかし、そうからかわれてるひとがいて、わるいことばなんだなって」
「じゃあ使うなって。しかも意味わかってねぇのかよオイ」

 なんだかよくわからないが土方は呆れたように溜息をついた。それから総悟の腕を引き、自分の胸に抱き寄せる。

 ぎゅう、って音がするんじゃないかってくらい強く抱きしめられた。息が苦しくて、こんな風に抱きしめられるのは初めてだった。居心地が悪くなったのか子猫が総悟の膝から逃げていく。

「やっと、声聞けた」
「おまたせしやした」
「変な言葉遣い」

 耳元で土方が吹き出した。長いこと話さなかったので言葉遣いはたぶんテレビか何かの影響を受けたんじゃないかと思う。しかし土方が笑うのでこのままでいこうと決めた。おもしろいみたいだからこれでいいや。直すのめんどいし。

「でもめずらしーですね。ひじかたさんがおれにさわんの」
「は?」

 土方が変な声を出し、抱きしめられていた腕が緩んだので総悟は少し体を離して土方の顔を見られるようにした。なんだか服と話しているような気分だったので。

「だっておれにさわんの、きらいでしょう?」

 言ったら更に変な顔をされた。土方は天井を見上げて何か深く考え事を始めてしまって、何かあるのかと思って総悟も天井を見上げてみたが何もなかった。

「……どこでそういう誤解がお前の中で生まれたんだ?」
「ちがうんですかィ? だってほら、はじめてあったときおれがさわろうとしたら、ものすごくいやがったじゃないですか」

 総悟が言うと、土方はようやく思い当たったらしい。ああ、と納得の声を上げた。そしてすぐに溜息が続く。理由はやはりわからない。

「あー、もういいや。誤解はあとでじっくり解くから」
「そーですか」

 いろいろわからないことだらけで、これも大人の事情というやつなのだろうか。でもとりあえず今まで総悟が思っていたのはどうやら誤解だったらしいことだけはわかった。

 いつもは触る前に何か聞くのに、土方はもう総悟に確認を取るのをやめたらしい。さっきと違ってやさしくふわりとした感じに抱きしめて、耳元でささやいた。

「なあ、俺の名前呼んで」

 昨日近藤にも同じことを言われた。たぶんもう近藤の名前は100回くらい呼んだと思う。まだ50までしか数えられないけどたぶんきっとそれくらい。

「ひじかたさん」
「もう一度」
「ひじかたさん」
「もう一度」
「インポテンツ」
「違ぇ」

 わざと言い間違ってみたら耳元で土方の苦い声が返ってきた。土方の吐息が耳をくすぐるのが心地よくて、幸せな気持ちになる。

「あ、そーだ。げんきになったらネコをおいしゃにつれれてってやってくだせェ」
「いいぜ。つーかそいつ名前やんねぇの?」
「だから、ネコでしょう?」

 言ったら土方はまた変な顔をした。こいつをネコだと言ったのは土方なのに、忘れてしまったのだろうか。
 咎めるようにネコがみゃあと鳴いた。




 昔は猫として認識できていたはずなのにしばらく見ないうちに種族名を忘れたってことで。でも覚えていても総悟はこういういい加減な名前をつけそうだと思う。


06/04/02