野良猫の飼い方

<1>

 初めは水色。次はオレンジ、引っ張られるように紫が続いて最後に黒がやって来た。夜。
 電柱についた蛍光灯の安っぽい明かりから逃れるように少し離れた暗がりにうずくまっていた。
 行き場なんてなくて、どこにも行けなくて、ここにいたいわけでもないけどなんとなくずっと空ばかり見上げて星の数一つ一つ数えて、真冬の冷たい空気が肌を侵食してもされるがままに。

 通り過ぎる人々。その誰にもこの姿は見えていない。一瞬姿を視界にとどめたかと思うと次の瞬間には別のほうを見て何気ない振りをして右から左へ、左から右へ消えていく。
 自分が見える人なんて世界に誰もいないような気がしてきた。見つかったのは、ちょうどそんな頃だった。

「何してんのお前」
「……別に」

 コンビニの袋を片手に担任の銀八が高杉を見下ろしていた。一人暮らしだと誰かが話しているのを耳にしたことがあるような気がするので、たぶんそれが夕飯なのだろう。

「寒くないの?」
「寒い、けど」

 防寒具持ってないし暖かい居場所も持ってないし。
 そう答えるのは高杉の矜持が許さなくて、言葉はそこで止まってしまった。
 銀八は高杉を見下ろして黙っていたが、やがて当然のように口にした。吐く息が白くて小さな雲が生まれたかのようだ。

「おいで」

 それきり背を向けて歩き出す。クシャミ一つ残して。
 呆然と背中を見送って足音を聞いていた。言われたことの意味がよくわからなくて。
 銀八は5歩くらい歩いたところで足を止め、振り返った。ひどく不思議そうな顔をして。

「来ないの?」

 ついて来いと言われているのだと、そこでようやく理解した。
 高杉が馬鹿みたいに銀八を見上げるばかりなので銀八は溜息を一つついて戻ってきて、布の薄い安そうな手袋をつけた右手を差し出した。

「なんでだよ」

 高杉の問いに銀八は笑って答えた。

「ただの気まぐれだよ。上の階の人がそれはもうかーわいいペット飼っててね、俺もほしくなったの」
「ペット扱いかよ」
「いやうちのマンションペット飼うの禁止だから」

 わけわかんねぇ、と高杉は胸の内で呟いた。
 それでも銀八のペット禁止マンションとやらに連行されること自体にはそんなに嫌な気にならなかった。


<2>

 銀八はすぐ近くのマンションの一室に住んでいた。1DKでそれほど広くなく、ベッドとテレビと漫画雑誌やエロ本があった。あとは教師のくせに教科書もパソコンも何もなかった。本人曰く重いし邪魔だから全て職員室に放置したままらしい。

「シャワー浴びといで。体冷えたでしょ。俺も後で入るからお湯残しといてね」

 連れて来られて早々言われるがままに風呂場に押し込まれた。
 なんとなく流れでついてきてしまったがこれから自分はどうなるのだろうという不安も大きい。シャワーを浴びている間に親に連絡されるのだろうか。それともこれから根掘り葉掘りいろいろ聞き出されたりするのか。
 とりあえずせっかくだし温まろう。何かあったら銀八を殴って逃げよう。そう思って高杉は服を脱ぎ始めた。

 シャワーに入っている間に銀八は着替えを持ってきて、あとはひたすらフライパンを握っていたらしい。高杉が上がってからもずっとフライパンと格闘していた。

「あ、適当に座ってて。本もいいのあったら使っていいよ」

 本に使うという表現はどうかと思うが、たぶんエロ本をという意味だったのだろう。生徒になんてこと勧めるんだこの教師は。しかしそれが銀八らしさでもあり、高杉はだんだん気を張っているのが馬鹿らしくなってきた。警戒するだけ精神力の無駄なのではなかろうかと。

「夕ご飯は銀さん特製冷凍ピラフでーす」

 しばらくして銀八は二人分の冷凍ピラフを持ってきた。食べたらものすごく甘くて思わず吐きそうになった。あまりにもひどかったので真顔で味覚障害の可能性を示唆してやった。それと糖尿病は不能になるということも教えてやった。銀八は少し青褪めた。

 しばらくして銀八は不能のダメージから立ち直り、テレビをつけて野球中継を見始めた。現実逃避というやつかもしれない。高杉は野球に興味はなかったが、どうせ他にすることもないので仕方なく一緒に見ていた。

 銀八は何も聞かない。電話した様子もない。だらだらしているだけだ。
 どうして連れてこられたのだろう。高杉は再び疑問に思い始めていた。

「何も聞かねぇの?」

 野球中継をなぜか不思議そうな顔で観ている銀八に、高杉はポツリと聞いてみる。銀八はさもたった今高杉の存在を思い出したような様子でこちらを見て、少し考えるような素振りの後に小さく首を傾げて言った。

「野球はルールわかんなくてもなんとなく見ていられる気がしない? あ、でも知ってるなら教えてほしいんだけど、なんでこの人たちいつも同じところぐるぐる走ってるわけ」
「知らないで見てんのかよ。あれはああしないと得点が……ってそうじゃなくてだな」

 はぐらかされた。そのことがすこしムカっ腹たったんで落ちていたエロ本を丸めて頭を殴ってやった。まだ少ししか使ってないのに、とどうでもいい文句を零す。
 それから銀八がエロ本の下でふっと笑ったのが見えた。

「聞いてほしいの?」
「……別に」
「じゃあいいよ。別に親御さんに連絡する気もないし、ゆっくりしてればいい。あ、でも煙草吸うのは許してくれる?」
「……いいけど」

 終始銀八ペース。ひょっとしたら本気でペット代わりに連れて来られたのかもしれない。この教師ならなんとなくあり得なくもないような気がしてきた。

 でもそれがなんとなく心地よくて。


<3>

 そのまま特に会話もないまま野球中継は終わり、銀八は眠いから寝ようと言い出した。それから自分のベッドから二枚重ねられていた毛布を一枚はがして床に敷き、お前はこっちねとベッドを勧めた。
 こういうところだけきちんとしている。しかしどちらかといえば寝床より食事に気を使ってほしかった。まだ口の中が甘くて気分が悪い。

 そしてベッドに入って15分。どちらもまだ起きていた。
 高杉は銀八のクシャミと鼻をすする音がうるさくて眠れなくて、銀八は床で寝るのは寒いらしくクシャミばかりくりかえしている。というのも今日はかなりの冷え込みで、ベッドを使わせてもらっている高杉でさえ寒さで体が震えた。

「うるせぇんだけど」

 いい加減うっとうしさに耐えられなくなってベッドから顔を覗かせて下を見れば鼻をすする銀八と目があった。ずびずびと鼻をすすり、涙目でこちらを恨めしそうに見上げている。

「いや床って寒いんだよ。俺ソファとか気のきいたもん上の階の人みたいに持ってないからさ。あ、そういえば奥さん知ってます? 上の階の人は貧乏なくせにペットがほしがるからってだけでソファ買ったんだよ。麗しい愛だねぇ」

 誰が奥さんだ。そしていったいなんなんだ上の階の人。更に言えばなぜこんなにも上の階の人に銀八は対抗心を燃やしているのか。
 しかしそれはさておき寒い。どうして自分はあんな薄着で外にいられたのかと不思議なくらいだ。

「俺だって寒い。ちくしょ、そっちの毛布も寄越せ」
「あ、ちょっと何すんのご無体な! お前ベッド貸してやったんだから妥協しろよ、俺に毛布もなしで床に寝ろってのか!」

 結構本気で毛布にしがみつく銀八を蹴飛ばして高杉は毛布を奪い取った。二枚重ねればどうにか寝られるようになる。そもそも考えてみれば銀八はいつも毛布を二枚重ねて寝ていたのだから一枚では寒いに決まっているのだ。
 高杉に毛布を奪われ床に投げ出された銀八は、毛布の裾を名残惜しそうに引っ張っていた。これではこっちがペットのようだと少し思う。

「寒いよー寒いよー。上の階の人はきっと今頃じめじめした暖かさに包まれてるってのにさー」
「じめじめってなんだよ」

 仕舞いには膝を丸めてしくしくと嘘泣きを始めた。うっとうしい。ついでにいうと深夜のマンションで騒ぐのは迷惑行為なんじゃないか。そして無駄に深まりゆく上の階の住人の謎。

 高杉はやれやれと嘆息し、毛布を剥いで上半身だけ起き上がった。言いたくないのに、態度でわかってほしいのに、こういうときだけやたら鈍いのはひょっとしてわざとだろうか。

「だから、二人でベッド使ったほうが暖かくていいだろって言ってんだよ俺はっ」

 銀八の嘘泣きがぴたりと止んだ。顔を上げる。高杉はなんとなくぷいっと顔を逸らす。
 それからしばらく高杉的には今夜の気温以上に寒い沈黙が落ちて、銀八が無言で引越しを開始した。「いいの」も「ありがとう」もない無言の引越し。月明かりで照り返しを受けた顔は寒さに震えていながらもどこかうれしそうに見えた。たぶん気のせい。

「あー、ぬくい」
「いいからとっとと寝ろ。うぜぇ」

 連れてこられて早数時間、いつのまにか主従関係が逆転していた。
 どちらが部屋主なのかわかったものではないと思ったのは、たぶん二人とも。


<4>

 いい加減に始められた奇妙な共同生活は相変わらずいい加減に続いていた。
 学校では二人とも打ち合わせをしたわけでもないのにいつもどおり特に何の縁もない担任と生徒を演じていて、帰ってからはぽつりぽつりと会話をした。主に銀八の一方的なものだったが。

 銀八の話といえばテレビのドラマやスポーツのこととか(曰く独身男性の独り暮らしの魅力はエロ本と漫画とテレビくらいなものらしい)、高杉は未だに顔を合わせたことのないペットに異常な愛を注ぐ上の階の住人のこととか、今日の学校でのこととか、種類は豊富ではないけれど決してつまらなくもない程度のものだった。

「上の階の人はねぇ、浮気がばれて今ペットと喧嘩中なんだよ」
「お前ほんと詳しいな。ストーカーでもしてんのか?」
「いやいや顔を見ればわかるって。教師なんて仕事やってると人の顔色窺うのがうまくなるもんさ」
「けっ、ろくな仕事じゃねぇ」

 いつもこんな感じで、いつの間にかこの奇妙な共同生活が日常に取って代わろうとしていた。

「あれ高杉じゃん何してんのこんなとこで」

 昼休み、弁当もなく更に言えばすることもないので屋上でぼんやりしていたところに突然銀八が現れた。学校で話すのは珍しいことである。しかしよくよく考えてみれば昼前から学校にいること自体が珍しいような。

「暇してるだけ。お前は昼飯食いに来たのか」
「うん。今日はジャムパンとチョココロネとドーナツ」
「煙と糖分控えねぇとマジで死ぬぞ」

 購買部のパンを手にうれしそうなところに水を差してやる。この男のことだからどうせ毎日似たような昼食を取っているのだろう。不能より糖分を選んだらしい。

「ところで高杉の昼飯は?」
「金ないから抜き。先週で小遣いが底をついた」

 高杉はクラスメイトの土方や桂のようにアルバイトをしていない。おまけに自宅にも帰っていないので収入はゼロだった。先週まではそれでもなんとか食いつないでいたのだが、今週はもう一日二食の生活になっている。朝と夜、銀八の作る手抜き料理が唯一の栄養源だ。

 それを聞いて銀八は、なぜかすまなそうな顔をした。

「そっか、ごめんね気づいてやれなくて。俺のパン半分あげるから、今日はこれで我慢してね」

 明日からはお金あげるから好きなもの食べな、と笑って言った。
 これは銀八があやまることではない。勝手に家出して担任教師の家にいついてしまった高杉が悪いのだ。それなのになぜ謝られるのか高杉にはわからなかった。

 しかしそれを聞けるだけの勇気はなくて、高杉はその言葉を飲み込んでしまった。黙ってパンを受け取り、機械的に口の中に放り込む。隣で銀八は幸せそうな顔をして、とても高杉と同じものを食しているようには見えなかった。

 それからしばらく二人は黙々と同じパンを違う顔で食べていて、二つ目のパンを食べ終わったところで銀八がぽつりと口を開いた。

「まだ連絡来ないねえ。高杉の親御さんから」

 来るわけがない。あの親が自分を心配などするものか。いなくなってさぞかし清々していることだろう。それとも案外高杉がいないことにすらまだ気づいていないかもしれない。

「連絡なんざ来ねぇよ。俺なんかのために割く時間と電話代もったいねーじゃん」

 高杉は自分があまりできのいい人間であるとは思っていない。勉強は特別できないわけではないが特別できるわけではないし、暇さえあれば他校の連中と問題ばかり起こしている。Z組には沖田や神楽のような問題児が多いが、クラスの中でも高杉は特に銀八以外の教師連中から目の敵にされている。高杉が親だったとしてもこんな子供を持ちたくはない。

「だめだよ『俺なんか』とか言っちゃ」
「うるせーよ」

 本当のことを言って何が悪い。それでもなんとなく目を合わせるのが嫌で、銀八と反対方向を向いてパンを口に詰め込んだ。

 背中の銀八は何も言ってくる様子がなく、大人しくパンを食べているらしいことが音でわかった。二人の会話が唐突に途切れることはそう珍しいことではないが今回のケースは少し後味が悪いなと思って高杉はほんの少しだけ後悔した。
 それでも銀八が会話を打ち切ってしまったからには高杉としては前を向くとか別の話題を切り出すとかはできず、仕方がないのでそのままやたら甘ったるいパンを食べ続けた。あまりにも甘すぎてもう食べ飽きていたのだけれど。

 これを食べたら中庭にでも逃げよう。そう心に決めて最後の一口を口に放り込んだところで、後ろから手が伸びてきた。背後から、高杉の耳と頬を包み込む。


「それでも高杉がいい子だって、俺はちゃんと知ってるよ?」


 銀八の手の平の向こう側から聞こえてくる声はいつもより温かみがあったり柔らかかったりするわけでもなく、全くいつもと同じ少しやる気のなさそうなトーンで言われたので、最初は何を言われたのかわからなかった。最初の夜に拾われたときと同じ。理解したのは数秒後。

「……恥ずかしいこと言ってんじゃねぇよこのエセ教師」
「いやいや俺ってば一応れっきとした教師だしこれは俺の本音だって」
「パン食い終わってから言った辺り説得力に欠けるっての」
「だって手があかないとギュッてできないし。というかギュッてしていい?」
「したらセクハラで訴える」

 それでも今はもう少しこのままで。顔を見られたくないから。
 高杉と銀八の奇妙な共同生活は、まだしばらく続きそうである。




 高杉の両親は忙しくて出張ばかりでろくに家にいないって設定で。
 ちなみにもちろん上の階の住人はZ組のコンビニアルバイター土方君とペットの沖田君です。ペットに翻弄される駄目飼い主。その下の階ではペットに苛められつつもからかいは忘れない飼い主が暮らしています。

06/04/14