人魚姫の願い

 久しぶりの穏やかな天気だった。空の色も仕事の具合も。
 昨日まで二人とも次から次へやってくる仕事に忙殺されていたのがまるで嘘のような。

「平和ですねィ」
「そうだな」

 屯所の庭に面した廊下に二人並んで腰を下ろし、遥か頭上のどこまでも青い海をゆったりと気持ちよさそうに泳ぐ、淡い白色をした魚たちを見上げていた。まるで彼らを羨ましがるかのように、土方の口にくわえられた煙草の灰色の煙も青い海へ向かって昇っていく。

「こんな日くらい煙草吸うのやめりゃいいのに」
「却下。つーか無理」

 よく眼鏡を体の一部と称する人間がいるが、土方にとっては煙草がそれになってしまっているのかもしれない。煙草を吸わない日なんてもう考えられない。
 わざわざ部屋からここまで持ってきた灰皿に煙草を押し付け、もう一本取り出して火をつけようとする。それを見て沖田は小さな苦笑を漏らした。

「こんな日でさえ煙草に頼らないと生きていかれないんですかィ?」

 天気がよくて仕事もなくて、遥か彼方まで続く青を見上げているだけで過ぎ去って行く、穏やかな一日でさえも。

「本当に弱い人だ」

 灰皿の中の吸殻から流れる小さな煙と共に、沖田の透き通った声も一緒に空へ昇っていく。しかしたとえ行き先は同じでも、それは確実に性質を異にしている。言うならばそれはきっと強さと弱さや純、不純で大別される類のものなのだ。

「……お前が強すぎんだろ」

 苦い顔で毒づくように呟いて、取り出しかけた煙草をそのまま元に戻した。土方は沖田の言葉を認めるしかなくて、それはすごい癪だけどおそらく当たっていて、今まで煙草を吸う理由など真剣に考えたことはないが、なんとなくそんな気がした。

「俺が強いんじゃないですよ。ただあんたが一人でいろんなもん背負いすぎてるだけでしょうに」
「ガキが知った風なこと言いやがって」
「ガキにわかる理屈をわからないなんてかわいそうですねィ」

 嫌味を嫌味で返してきて、沖田はざまーみろと笑った。
 天気がよくて仕事が休みだからというだけの理由でこれだけ幸せそうにしている沖田をとても羨ましく思う。土方の頭は本人の希望を無視してもう明日より先のことを考え始めているというのに。

 沖田は強い。たとえ何があろうと、たとえどんなに弱ろうと、そこから必ず這い上がってくる。そしてまた天気のいい日に出会えれば同じ顔をして笑える。
 土方のように何かに依存することもなく、何物にもとらわれず、ただ己の在るがままに生きている。本人にそんなつもりはないのかもしれないが少なくとも土方にはそう見えていて、それがたまらなく羨ましかった。

「俺はお前が羨ましいぜ。何かに頼らず生きていけるお前がな」
「嫌だな。それは買い被りですぜ。俺だって頼るものくらいありまさァ」
「ふーん。そいつぁ初耳だ。で、お強くあられる総悟君は何がお気に入りで?」
「そんなに知りたきゃあんたが死ぬときにでも耳打ちしてあげやしょう」
「なんだよそれ」

 どうせお菓子とかゲームとか下らないものだろうに、何を考えているのか沖田ははぐらかして答えを口にしなかった。そのかわり話の矛先を土方のほうに戻してニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべる。

「そんなにストレス溜まるなら副長なんざ俺に譲っちまやァいいんですよ」
「馬鹿かお前。そっちのがいつ隊が潰れるかって気にしすぎてストレス溜まるって絶対。胃にでっかい風穴が開いちまう」

 そんなことを真顔で言うものだから、土方はつい吹き出してしまった。沖田は結構本気だったのか知らないが不満そうに少し顔をしかめて、しかし土方が笑うのを見てすぐに自分もへへと笑った。それから遥か天上にある青を見上げて目を細める。そこに何か大切な宝物でも見ているかのように。

「明日からまた雨らしいですぜ。俺たちもまた仕事だし。あーあ、今日みたいな日がずっと続けばいいのになー」
「本当にな」

 今日は快晴。束の間の晴れ。明日からはまた雨が降る。天空からは透き通った青い雨が、地上からは汚れた赤い雨が。全ては大地に、人間に降り注ぐ。晴れの日はきっとまた当分来ない。

「お前さえ望めばいつだって手に入るんじゃねぇの」
「へ? 何がですかィ」
「お前の言う『今日みたいな日』ってやつが」

 平和を望むなら、こんな血生臭い仕事などやめてしまえばいい。沖田なら誰にも知られず争いごととは縁遠いずっと遠くまで行くことも、新しい人生を歩むこともそう難しいことではないはずだ。沖田が望みさえすれば。真選組を捨てさえすれば。

「最期まで俺たちに付き合う必要なんてねぇんだぞ。お前はまだ若いんだ。今からだっていくらでもやり直せる。近藤さんも口にはしないかもしんねェが、たぶんそれを望んでる」

 そして土方も同じことを願っている。こんな半ば結果の見えたデキレースは放棄して、幸せに健やかに生きながらえてくれることを。どうか自分たちのかわりに。

「真選組は幕府に忠誠を誓った組織だ。他の奴らはともかく近藤さんはそれを捨てることはできねぇ。もちろんそれは俺も同じだ。だから総悟、お前が俺と近藤さんのかわりに新しい世界ってやつを見届けてくんねぇか」

 世紀の大喧嘩を仕掛けた馬鹿どもが力ずくで奪い取った世界をどのように変えていくのか、一度腐りきってしまった世界をどう立て直していくのか、その先には何があるのか。
 簡単にくれてやる気はないがその点に関してだけは興味がある。しかし土方がそれを見ることはきっと叶わない。だからかわりに沖田に思いを託すのだ。

「どうだ、総悟」
「んー、つまりどういうこと」

 大人しく聞いていたかと思えばやけに考え込んでいて、この馬鹿を相手にするには話を少し難しくしすぎてしまったらしい。
 土方がもっと簡単に言い直してやろうとしたところで、沖田はぽんと手を打った。

「えっと、ああ簡単じゃん」

 ヒュッ

 言うや否や突然立ち上がり、目にもとまらぬ速度で鞘から刀を引き抜いた。風が走り、まだ懲りずに立ち上っていた灰色の線がゆらりと音もなく斬られる。

 土方がそれをかわすことができたのは本当に奇跡に近い偶然で、100回に99回は首を刎ねられていたのではないかと思う。気がつけば刀は土方の両眼を掠めて前髪を数本浚っていた。

 それでも沖田の攻撃の手は止まらない。すぐ正眼に構えなおし、鋭い突きを繰り出してきた。

「なっ、オイ!」

 土方は刀を抜く暇がなく、手元にあった灰皿で何とかそれを防ぐ。ガチッと硬い金属音が静かな空に響き渡った。

 びりびりと、灰皿越しに衝撃が手に伝わってくる。

「っにすんだ突然てめぇ!」

 灰皿を掴んでいないほうの手を腰の柄にやり、土方は怒鳴りつけた。間違いなく本気で殺されかけた。
 しかし上司を暗殺未遂したくせして沖田は涼しい顔で、刀を引きもせずしれっと答えたのだった。

「いや、俺が今ここであんたを殺して副長になればいいのかなって」

「全然違ぇだろ、どこをどう解釈すりゃそういう結論に落ち着くんだコラァ!」
「そんなに辛いならいっそ楽にしてあげようかと思っただけなんですがねェ」

 言いながらもとりあえず奇襲作戦は失敗と見たのかしぶしぶ刀を鞘に収め、沖田はまた座りなおした。土方も同じように腰を下ろし、廊下に散らばった吸殻と灰を適当にかき集めて灰皿の中に戻す。残りはあとで山崎にでも片付けさせればいいだろう。

「……ここにいたいってか」

 今度こそ取り出した煙草を口にくわえ、ライターで火をつける。沖田は再びさっきまでと同じように青い海を見上げていた。

「はい。ここにいたいです」
「ったく、強情なガキだぜ」
「ここから見る空、好きなんですよ」

 大きな溜息を吐き出して、土方も上を見上げる。空なんてどこも同じだろうに、沖田の目には何がどう違って見えるのだろうか。ぜひとも教えてもらいたいものだった。

 もっときれいな世界で生きることもできるのだと知っていながら、穢れなき青い海には帰らずに血に汚れた陸地を這いずり回って生きることを選ぶ、その理由は。

「俺のことを思うなら、最後まで傍にいさせてくだせェ」

 青い海に恋焦がれているかのように、灰色の煙が遥か天空へ上っていく。
 本当にきれいな世界に帰りたいと願っていたのは、沖田の方ではなかったのかもしれない。そうだ、帰りたいと願うのはいつだって帰れないことを悟った後なのだ。

「羨ましいぜ、お前の強さが」
「いやいや、いつもすぐ傍に精神安定剤がありますから」

 空を映していた瞳が大地に落ち、土方の姿を映す。その先にも空が見えているかのように、さっきまで空を見上げていたのと全く同じ顔をしていた。



 精神安定剤とは何を指していたのか、沖田は最後まで教えてくれなかった。
 しかしいつか土方が死ぬときには耳元で囁いてくれるのだろうか。その言葉を、その名前を。




 空の描写が好きです。雨とか風とか自然に関する描写が好きです。こういう落ち着いた話を書くのも好きです。今回の反省点は前に似たような話を書いた気のすることですか……。
 ちなみにテーマはタイトルそのままで『王子に恋した人魚姫』です。


06/08/02