桃源郷 お気に入りの銀杏の木の太い枝に体を預け、無心に空を仰いでいる。淡い黄金色の隙間から覗く赤と藍の二色のそれは、あの不思議な色をした瞳には何色に映るのだろうか。 よく、まるで猫のようだと思う。あの何を考えているのかわからないところがそう錯覚させるのではないかと思う。 しかしその一方で鳥のようだとも思う。まるで今にもミルク色の舐めたら甘い味のしそうな羽を広げて、大地になど一瞥もくれずに飛び去ってしまうのではないかと。 この猫とも鳥ともつかぬ人の形をした生き物が何を考えているのか時々はかりかねることがある。 その一つがこうして木の枝に体を預け、手の届かない遥かな空を見上げている時だ。 何を考えているのかと尋ねてみてもいつも決まって要領を得た答えは返ってこない。ひょっとしたら本当に心を空っぽにしているのかもしれないと考えて、ただでさえ頭が空っぽなのに心まで空っぽにしたらそこには何も残らないのではないかと苦い気持ちを覚える。だってそんなの寂しすぎるではないか。 それと理由はもう一つ、いつもは見下ろしていることの多いその姿を首が痛くなるくらい高いところに見上げていると、なぜだか自分は不安になるのだ。それは木を登るには不自由なこの体ではあんなに空に近いところへ登ってしまったあの生き物に触れることができないからかもしれない。 汚れた地面に縫いとめられて空へ飛び立つことの叶わぬ自分。 空へと舞い上がる翼があるのに大地と空の境界に埋もれていることを好む生き物。 それでいて、空を見上げるその表情はいつも故郷に恋焦がれているかのような。 空の果てにあるといわれる桃源郷にでも帰ってしまいたそうな。 一度訪れることはできても再び訪れることは叶わぬという、幻の地へ。 「何を、考えているんですか」 突然振ってきた声にどきりとした。これだけ近づいて堂々と見つめていたのだから気づかれていないはずなどないとわかっていたはずなのに。きっと自分でも意識せぬうちにあれは大地のことなどトンと興味を持たぬ生き物だと思い込んでいたのだろう。 「お前が何を考えているのか考えてた」 正直に告白したら、風と共にくすりと笑みが降ってきた。ひとひらの銀杏の葉が舞い落ちるような柔らかさで。 「おかしな人だ。いつも同じことを言うんだから」 今度は少し困ったような苦笑交じりの吐息が降ってくる。あんたはいつもそれですね、と。 そしてそれから少しの間、風のそよぎに耳を傾け、おもむろに赤と藍から目を離すとこんなことを口にした。 「あんたにとって空ってなんですかィ」 戯れのような謎かけ。やっと大地をほんの少しだけ見下ろして。 彼にとってそれは本当に気まぐれか何かだったのだろう。それでもたとえわずかであっても空より自分を見てくれたことをうれしいと感じる自分に、重症だと心の中で舌打ちをした。 「空、か。なんだろうな」 問われてもすぐには答えが見つからない。いつも当然のようにそこにあるからこそ、見えないことというのはきっとあるのだろう。 思い巡らし口を閉ざしていると、答えが返ってこないことに不満を覚えたのか木の上の生き物はこちらを見下ろしたまま小さく口を尖らせた。 それにしても考えたこともなかった。あれが何であるかなど。 毎日同じ色を繰り返し、いつも白い魚が泳ぎ、時には透き通った涙を降らし、あるいは光の竜が踊る。いつも頭上にあるそれ。 いうなれば手の届かないものだろうか。そしてとても大切でいとおしい、猫とも鳥ともつかぬこの人の形をした生き物を、いつか風のひとそよぎでもって浚っていってしまいそうな。 あるいはそれは、嫉妬の対象。 「俺にとって空は空でしかないんでさァ」 木の上に座した生き物は、先ほどより藍の割合の増えた頭上を再び仰ぐ。 桃源郷などないのだと口にしながら、やはりなぜだか恋しがっているかのような表情をして。 こともなげに冷たいことを言ったくせに、尚も大切なものを愛でるような瞳で。 「だから何を考えているのかなんて聞かれても、答えようがありやせん」 それではなぜそんなにも空ばかり見上げているのか。少しでも近づこうと木の枝に登り、猫のように鳥のようにあるのはどうして。 本当は楽園と謳われるそこへ帰りたいのではないのか。 「俺がお前に同じことを馬鹿みたいに繰り返し尋ねるのは」 この背には羽がない。それどころか気の向くままに歩いていける猫の足すらも。 だから桃源郷を探しになど行けないし、もし万が一「一緒に行こう」と言われても、泣く泣くその手を離して見送るしかないのだ。 この大地に根を下ろして、時を重ねるこの銀杏の木のように。命絶えるまで永久にここに。 「お前が、どこかに帰りたそうにしているから」 どうか行かないで、そう告げるための声を持たない。触れようにも手が届かない。だからこうして、見上げることしかできないけれど。 この生き物がいなくなればきっと枯れてしまうから。 「ばっかだなァ、土方さんは」 今度こそはっきりと大地を、いや土方を見て、沖田はくしゃりとした笑い顔を浮かべた。 そしてそれから「とうっ」とふざけた掛け声一つ、羽を広げることなく猫のような優雅さをもってでもなく、戯れる人の子のように両手を広げて土方めがけて飛び降りた。 「うぁっ、……っの馬鹿!」 落とさぬようしっかりと抱きとめて、しかしあまりに咄嗟のことに支えきるのには失敗して、傾いて後ろに盛大に倒れた。しかし頭に大した衝撃はなく沖田が頭に手を回して庇ってくれたと気づいたのは、頭を抱きこむようにしてふわりと抱きしめられた時のことだった。 「本当に馬鹿な人だ。俺が帰る場所はここしかないってのに」 ひらひらと言の葉が舞い落ちる。まるで春の雨のように優しく。 「それでももしあんたの目に俺がそう映るんなら、きっとそれは遠い昔のあのころからずっと同じだからでさァ」 空が、空だけが、あの頃から変わらないから。 抱きしめられた隙間から垣間見えるそれ。たしかにそこには昔と同じ色があった。手を繋いで一緒に見上げた、あの時と寸分違わぬ焦がれるほどに懐かしい、帰りたくてももう帰ることのできない故郷。 「帰りたいのか」 少しくらい悩むかと思ったのに、存外早くにあっさり返事は返ってくる。空と同じであの頃から少しも変わらぬ笑顔をのせて。かつて訪れた楽園で見せたのと同じ、変わらぬ色がそこにはあった。 「ここが俺の帰る場所ですから」 この血で汚れた大地こそが桃源郷なのだと、猫とも鳥ともつかぬ人の形をした生き物はささやいた。 実は前に同じテーマで全く違うことを言っている土方さんがいるのでそちらと対比して読むとおもしろいかもしれない。どうでもいいかもしれない。 沖田を猫と鳥に、土方を木になぞらえたお話でした。 06.12.25 |