ハリネズミに恋をした 体が、だるい。 重たい瞼を持ち上げて、いつもより3割増くらいに動きの鈍っている思考をのろのろと起動させるとまずそう思い、それから次にだるい上に痛いと思った。 面倒で嫌だったけれど、いつまでも寝ているわけにもいかない。それに体の異常を察知してしまった時点で気持ちよく夢の世界に帰るなんてこともできない。だからどうにか起きようと決意する。 右手に「動け」と命じると思ったよりかは幾分ましに動いてくれた。握ったり開いたりを数回繰り返し、顔の前に持ち上げてみる。すると今度は関節や筋肉がきりきりと痛みを訴え、やはりアウトかと小さく舌打ちをした。たぶん少なくとも今日のうちは体は正常に動作してくれないだろう。 そして顔の前に持ち上げられた手首には青紫色がいる。見間違いようのないほどくっきりと鮮やかな痣。確認するのが面倒なのであえて見るつもりはないが、たぶんこれと同じものが左手にもついているのだろう。最悪だ。 「起きたのか」 出し抜けに隣からかけられた声は沖田の胸の中に不快感を生んだ。その一方でやはり犯人はこの人かと納得する。屯所の部屋までやって来て自分を犯す人間など他に心当たりもなかったので。 「昨日、何があったんですかね」 そう口にした途端口の中にまで嫌な痛みが走って、切れているらしいと知った。手首といいこんな人目につくところにまで厄介なことをしてくれて、この人は一体どう責任を取ってくれるつもりなのか。皆さんが寝ている間に喧嘩しましたなんて言い訳、きっと誰も信じてくれない。 「覚えてねぇの?」 こちらに背を向け黙々と煙草をふかしていた土方がちらりとこちらに目をくれる。その顔をなぜだか今は視界に入れたくなくて沖田はわざとそっぽを向いた。 そのまま、壁に向けて答える。 「途切れ途切れにしか」 自分の記憶に昨晩のことを尋ねてみても、体が感じた熱と痛み以外の情報は何一つ出てこなかった。おそらくこれは寝起きのせいではないだろう。単純に心が思い出すことを拒否しているのだ。 とはいえいくら馬鹿な自分だってこれくらい状況証拠が揃っていれば何があったのかくらいすぐに見当がつく。しかしあえてそれを口に出して尋ねるのもなんとなく悔しくて、沈黙の時を過ごすことにした。 「……喧嘩して、無理やり犯した」 長い長い沈黙を過ごした後やがて耐えられなくなったのか、ばつの悪そうな告白が背中から降って来る。沖田はそれに「ふーん」とだけ言って適当に会話を流してしまった。覚えていない喧嘩の種なんてものには興味がない。思い出すだけ損だろう。同じことを繰り返してしまうだけなら。 「……あの、さ。怒ってるか、やっぱ」 これで怒らない奴がいたらただのマゾだ。 「あんたにこの痛みとだるさ全部押し付けてやりたい」 そうすればこの人だって少しはわかるだろうに。目が覚めたら体中がだるさと痛みに襲われている挙句半分くらい記憶が飛んでいて、それなのに隣には恋人がいるという恐ろしさを。これが知らない人だったならそれはまだ幸せな朝だったのに。 ふと、体が軋んだ悲鳴をあげていることに気付いた。そこで初めて右手が無意識に畳の上を這っていることに気付いて少しだけギョッとする。何を探して這い回っているのかすぐに察しがついて、意識的に動かした左手で捕まえた。 ああ、もう駄目だ。 壊れてしまったいろんなものに目を瞑ってしまいたくて、そのまま両腕で顔を覆った。自分の内側に渦巻いている感情に、泣いていいのか笑っていいのかすらもよくわからない。 何もかもが馬鹿げている。砂で作った城があっけなく波に崩されてしまったときのような、虚ろに冷えた心が小さくそう呟く。 「刀、どっか遠くにやっちゃってくだせェ。でないといろいろ保証できねェ」 もしも右手がその在り処を見つけようものなら、直ちに自分はこの人の息の根を一太刀でもって止めるだろう。それくらいに今の自分は土方を憎んでいる自覚があった。きっと、ためらいもなく殺せる。 「わかった」 カタ、と物音がして土方の動く気配がした。視界の隅に意識をやると、そっぽを向いていた背中が動いたのが見える。見て、また見たくなくなって、ふいと目を逸らした。 「いいぜ。斬っても」 こちらを振り返り、手が伸びてくる。大きな手。この手に触られるのが好き。でも今はどうしようもなく嫌い。ものすごく真摯な顔も今は目に映したくない。 「……やめろ。離せ」 「俺はお前に斬られたって文句を言えねぇ」 「お願い、離して」 手首を掴むその手を乱暴に振りほどこうとしたら、土方が僅かに握る力を強めた。 それはおそらく他意のない、ただの反射のような行動だったのだろう。しかし沖田の体はそんな些細な動作にさえ過剰に反応して、望んでもいないのにカタカタと小刻みに震えだした。 頭の中で危険信号がチカチカと鳴り始める。 覚えてもいないくせに、毒づいても何も変わらない。悪意もなく危険ばかりを主張するだけ。 「触んな。やだ。うざい。気持ち悪い」 押さえつけられて逃げられない。痛いのにどうすることもできない。 中途半端に蘇生された記憶が恐怖となって全身を襲う。それはじわじわと心を蝕み、決して切ってはいけなかったはずのスイッチがいとも容易くオフになり、リセットされる音を聞いた。 「おい、聞いて――」 「やだ、土方さん……」 侵食された心は理性を手放して、パニックを引き起こす。何もわからなくなる。 「や……」 たった一度の裏切りが、何もかもを拒絶させた。 「やっ、やだ、やぁっ……やあぁぁ!」 「っ……総悟!?」 完全に恐慌状態に陥って無我夢中で叫び声をあげた。助けを求めて伸ばす手をまた強く掴まれて、わけもわからず怯えて打ち払った。理性を見失い、ただひたすらに逃れようとする。自分を落ち着かせてくれようとする人の手の内から。 「うぁ、……ひっ、けほっ」 不意に、心に静寂が訪れた。混濁していた頭の中がその刹那、完全に真っ白になる。 声はぷつりと途切れ、呼吸が苦しくなる。なんだこれ。嫌だ、怖い。突然呼吸の自由を奪われたことに本能的な恐怖が更に増幅され、沖田は体をくの字に折り曲げて激しく咳き込んだ。 苦しくて苦しくて、酸素を求める。それでも得て楽になることは少しもできない。まるで、愛のように。 「落ち着け総悟、ただの過呼吸だ! 気持ちを落ち着けて。無理に息をしようとするな」 「やっ……げほっ」 再び伸ばされた手を沖田は尚も撥ね付けた。土方の舌打ちがかろうじて耳に届く。昨日の夜も耳にした音。このあと押さえつけられて、噛み付くように乱暴なキスをされたことを思い出した。 この手は敵だ。沖田を害する怖い手だ。だから絶対に捕まってはいけない。 沖田の中の記憶が命じる。警告を発する。それに従い、沖田は呼吸の自由も失ったまま必死に逃れようとした。 「この、暴れんな! 総悟……ちっ」 触れることを諦めたのか手は一瞬沖田の手の届かない後ろの方へと消えた。しかしその手はその辺に落ちていた白いシャツを取り上げすぐに戻ってくる。そして今度こそ乱暴に力ずくで組み伏せて、沖田の口にシャツを強引に捻じ込んだ。 「……っ、うぐ」 「ゆっくり呼吸するんだ。少しずつ気持ちを落ち着けて。……お前が嫌なら、触らないから」 記憶と少しも合致しない優しくて悲しい声は今の沖田にとってどこか遠い世界のもののようで、奥の方で閉じこもって泣いている心には少しも届きはしなかった。押さえつけられたことで恐怖が刺激され、がむしゃらにその腕を叩いたり引っ掻いたりして抵抗を試みる。 「総悟。落ち着け。大丈夫だから、もう何もしないから」 土方の腕にいくつもの赤い血の筋が浮かぶ。それでも土方の手の力は少しも弱まることはなく、ただ沖田が落ち着くまでずっと名前を呼び続けていた。静かに静かに、子守唄のように。 「ひ、じかた、さん……?」 土方のその行動と疲労もあって、理性を見失った心はやがて少しずつそれを取り戻していった。抵抗をやめ、じっとこちらを見下ろしている瞳を見つめながら、だんだん呼吸が楽になっていくのを感じる。さすがに心までは楽になれなかったけれど。 それから何分くらい経ったろうか。やがて布越しにあてがわれた手は離れていって、かわりに乱れた布団をそっとかけ直してくれた。 「もう平気か?」 土方が問う。しかし沖田は答えずに横になったまま、土方の腕に走った赤い流れだけを見ていた。明確な拒絶と憎しみでもってつけられた傷を。 それでもあの傷はそのうち癒えて消えてしまって、見えない傷だけが癒えずに残るのだろう。それは沖田にもいえることで、この痣も口の中の怪我も本当は何も問題ではないのだ。問題なのは癒し方すらわからない内側の傷の方。 この人は一体今どんな気持ちでいるのだろう。ふと、そんな考えが浮かんだ。 「土方さん」 名を呼んだら喉と心が痛んだ。 「どうして俺を裏切ったの」 何もかも知っていながら、好きだと言いながら、どうして。 「あんたにだけはこんな風にされたくなかった」 好きで好きで、信じていたから。 頬を濡らすこれは悔し涙だと、はっきりと感じていた。 「総悟」 頬に伸ばされかけた手が空中で止まる。きっと沖田が露骨に体を強張らせたからだろう。 行き先を失った手は何もないところを泳いで、それから恐る恐る、爆弾にでも触るような怯えた手つきで掛け布団ごしに沖田の肩に触れた。指先というよりもむしろ爪の先端だけで。 土方が触りたがっているのがよくわかったから、沖田のほうも体が震えてしまわないよう精一杯の努力をした。それでもまだ、布越しにさえその熱を恐れている自分がいる。 「ごめんな、うまく愛せなくて」 こんな時いつもなら抱きしめてキスをしてくれるのに。心からの謝罪を聞きながら思った。当たり前だったはずのことが、一夜を隔てて今はもう果てしなく遠い世界のことになってしまった。 「本当に、冗談抜きで、俺を殺したっていいよ」 そして、きれいな過去だけを思い出に。 もしそんなことが可能だったなら、それはどんなにか幸せなことだったろう。あるいはどんなにか不幸せな。 「……俺は、後悔したくありませんから」 それなのにいろいろなものが壊れてしまった今でさえ、沖田にはそれ以外の言葉はあり得なかった。 なぜなら沖田は知っているのだ。どうせこの人を殺したところで全て自分に返ってくるだけなのだと。最愛の人を奪った自分自身に憎しみが向き、最後には二つの屍しか残らない。 「土方さん、俺に触りたい?」 「……ああ」 「俺も」 泣きそうに歪んでいる顔に手を伸ばす。それでも触れることはやはりできなくて、まるで見えない布を間に挟んでいるような微妙な隙間を空けてそこで止まってしまう。これが今の限界。もし乱暴にそれを侵せば、今度こそ本当にすべてが終わってしまう気がした。 「あんたは俺を裏切った。だから怖いし殺したい」 記憶が飛ぶくらい、呼吸を忘れるくらい、たくさん傷ついたのに。 「なのに、それとおんなじくらい、あんたのことが好きなんだ」 たとえどんな裏切りを受けたって愚かしいまでに欲している。愛されることを。愛することを。 だからどうかこの傷が土方自身の手によっていつか癒されますように。 お祈りに、触れることのないキスの真似事をした。 沖田を苛めよう計画その二。 土方さえいれば無敵で、土方がいなければ何の力も持っていないくらいの土方至上主義な沖田っていいと思う。 なんだか少しも艶っぽくないしやたら書き辛かったです。 07/02/18 |