春宵


 彼らを見ていると時々考えてしまう。人を好きになるとは一体どういうことなのかと。
 たとえば恋というものを飴玉のように舐めてみたらどんな味がするのだろう。甘いのか、それとも苦いのか。もしかしたら人それぞれ違うのかもしれない。
 それならば自分の恋はどんな味がするのかと、考える。まだ眠くなくて暇を持て余したベッドの中の子供のように。ぼんやりと、心を空っぽにして考えるのだ。



 ようやく冬の肌寒さも消え、そろそろ春が来ようかという時期である。
 こんな日はベランダの窓を開けて常に新鮮な空気を取り入れ、週刊誌に目を通しながら上の階の痴話喧嘩に耳を傾けるのが暇潰しには一番だと高杉は思っている。

「だから、料理作ってくれんのは助かってるんだって! 俺が言いたいのはだな、コストに気を配れってことなんだよ!」
「はっ、作ってもらってる分際で文句言うんじゃねーよ。大体あんた、文句あるならまずマヨから節約しなせェ」
「何言ってんだお前。人ってのはマヨと水だけは摂らねぇと死んじまうんだぞ!?」
「それじゃあとっくにあんた以外の人類は滅んでまさァ。死ねよ土方」

 どうやら今日の喧嘩の種は食費とマヨらしい。あいつはマヨさえ絡まなければ常識人なのに残念だ、高杉にそう語ったのは誰だったか。確かこの部屋の主だった気がする。

「もういい。今日は帰りまさァ!」

 苛立った声に続いてやかましくドアの閉まる音。そしてエレベータを待つのすら癪だったのか乱暴な足音は階段を踏み抜かんばかりにガンガン鳴らし、続いて廊下を歩き、高杉のいる部屋の前でぴたりと止まった。
 インターホンが鳴る。

「今日俺こっちで寝ることにしたから」

 頼むでも都合を尋ねるでもなく、ドアが開くや既に決定事項としてそれは伝えられた。まだ幼さの残るきれいな顔を不機嫌そうに歪ませて。

 もし会話を盗み聞いていなかったなら一体どういうことなのかと面食らうか態度の不躾さに眉を顰めるかしていただろう。あるいは部屋の主ならば問答無用でドアを閉めて追い返したかもしれない。しかし今日は冬と春の中間の気持ちのいい夜更けだったので、幸いにもそんな無駄なプロセスを省くことができた。だから何も聞かないし、おもしろそうだから拒絶もしない。退屈で退屈で困っていたのでちょうどいい。

「いいぜ。でもそのかわり飯作ってくんねぇ? 俺はマヨなんかいらねぇし食費もとやかく言わねぇから」

 もちろん本当に作ってもらおうだなんて思ってはいない。沖田の料理は味付けが独特すぎて高杉は好きじゃない。
 からかうつもり満々の笑顔を見るや、思ったとおり沖田の頬が朱に染まった。何を聞くでもなく高杉の肩越しに開け放された窓を見て全てを悟り、手加減無用で拳を前に突き出してくる。

「うわーお」
「っ、避けんな!」

 わざとらしく声を上げ、あっさりと避けたのが余計に気に障ったらしい。立て続けにハイキックまで飛んできてこれは少し危ないところで受け流した。

「デバガメ!」
「そっちが窓閉めずにしてんのが悪いんだろ? ま、これで学習したら喧嘩とセックスの時くらい防音するんだな」
「くたばれ! 滅びろ!」

 素手の勝負で高杉には勝てないとわかっていながら、沖田はますます真っ赤になってもう一方の拳でもって攻撃を加えてきた。しかし攻撃は一発も高杉には当たらない。そのうちにじゃれあうのも飽きてきて、近所迷惑には部屋主がうるさいのを思い出し、いい加減捕まえた拳を引っ張って部屋へ連れ込んだ。

「入れよ」
「……先生は」
「うちの学年の教員連中に飲みに連れてかれた。お前、コーラと水ならどっちがいいんだっけ?」
「コーラ」

 ぶすっとした表情で座布団の上に胡坐をかく。落ちていたジャンプを目ざとく見つけパラパラとページをめくりだすがあまり読んでいる風には見えなかった。本が逆さまだ。

「つーかさ、お前帰るとか言ってなかったっけ? なんでここ来てんだよ」

 ほとんど何も入っていない冷蔵庫から二人分のコーラを取り出し、片方を沖田に放る。自分も落ちている座布団を引っ張ってきてその辺に座った。

「……このマンションの防音設備はどうかしてらァ」
「窓開けてちゃあ防音設備も意味ないんじゃね」
「黙れ。死ね」
「うん、それはわかったからそれで?」

 にやにや笑いで先を促せば仏頂面が少しだけ怯んだ。視線がしばし彷徨って話題から逃れる術でもたぶん探していたのだろう、しかしやはりあの成績は伊達ではないのか諦めてしぶしぶと口を開く。

「……だって、俺んち遠いから土方さんきっと迎えに来てくんねぇもん」

 ああ、そういうこと。自分から出て行ったのは仲直りのきっかけを作るためか。
 高杉は納得して、ぷっと吹き出してしまった。Z組の三大恐怖として恐れられている沖田にこんな可愛らしい一面があることを知ったら他の連中はどう思うだろう。暴露したらけっこう愉快な展開になるかもしれない。たぶん最終的には血を見ると思うけど。

「ま、いーけどさ。どうせ今日は一人で暇だし。……それにしても沖田はあれのどこがいいんだ?」
「え」

 戯れに問うと沖田はコーラを傾けたまま硬直した。しかし重力にしたがって落ちてきた液体に噎せてすぐに混乱だか石化だかの魔法は解ける。やっぱこいつ馬鹿だ。苦しそうに咳き込むのをコーラを飲みながら見守って待つことしばし。

「と、とにかく好きなんでさァ!」

 ようやく沖田は復活し、決して大きくはない声でぼそぼそと言った。もう少し大きな声で言ってやれば上の階まで届いたかもしれないのに。そうすれば喧嘩なんて即座に解決しただろうに。

「あっそう。全部好きなんだ。ふーん?」
「なっ……黙れコノヤロっ!」

 さっきから赤面し通しの沖田はついに恥ずかしさがピークに達したらしく、死ねの一言と共にまたもや右ストレートを繰り出してきた。しかも今度はかなりの本気モードで。
 もっとも本気モードだろうが死ぬ気モードだろうが高杉は大抵の拳は受け止められる自信はある。もちろん今の攻撃だってきちんと防御した。しかし不幸にも、沖田の右手にはまだ十分に中身が残っていると思われる缶などという凶悪な武器が装備されていたのだった。

「あー……」
「あちゃ……」

 二人して缶と床を見下ろした。沖田の容赦ない攻撃に巻き込まれたそれは留学生の凶暴少女に匹敵する驚異的な握力で半ば潰れていて、中身の液体は派手にあちこちに茶色い染みを作っていた。床も沖田も高杉も全て平等に。

「悪ィ。缶持ってたの忘れてた。えっと、何か拭くもの――」
「ああ、いいって。これで拭くから」

 立ち上がりかけた沖田を制し、高杉はがばりと着ていたシャツを脱いだ。どうせ洗濯しなければならないのだしこれで拭いてしまった方があとで干す物が少なくていい。

「それ飲んじゃって」
「あ、おう」

 沖田は素直に頷いて缶の中身をごくごくと喉に流し込む。零したせいで中身は少なかったのかすぐに飲み干して、ごしごしと床を擦る高杉の手の動きを退屈そうに見つめていた。

「高杉は好きな人いねぇの?」
「今はいない」

 今はというか基本的に恋というものを知らない。でもそんなことを言うのはプライドが許さないので、あえてそういう言い方をする。

「先生は?」
「俺は女がいい。少なくともあれは絶対に嫌だ」

 思わず手を止めて、顔を上げ真っ直ぐ沖田を見て答えた。あんな教師とできているだなんて絶対に間違われたくはない。心外だ。
 本当に自分とあの男はなんでもないし、向こうはそもそも高杉をペットのカメ程度にしか見ていない。というかそうであってくれないと、自分はここにいられないような気がする。

「お前な、一緒に住んでりゃ恋人同士だなんて思うなよ? そういうのは普通、男女間でだけなの。お前らが特別なだけ、……?」

 不意に、部屋の温度が下がったような感覚を覚えた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに元の感覚を取り戻しその代わりにそう感じせしめたものの正体を知った。

 雪女というのが本当にいるのならこんな感じかもしれない。沖田を見て高杉は思った。内心で苦笑して、外側だけは無表情に雪女を観察する。滅多に見せないその様子は、沖田をよく知らない者が直面したなら恐怖に駆られるだろう類のものだった。しかし沖田を知る高杉の目にはそれは、

「好きな人とセックスして何が悪いの」

 ともすれば泣き出してしまうのではないかという、ギリギリのところで何とか保っているような。震える声と冷たく表情の消えた顔はそんな印象を与えた。 

 本当に、彼らを見ていると時々思う。彼らはきっと本気の恋というやつをしているのだと。高杉がまだ知らないような熱い感情を、身を焦がすような炎を知っているのだ。
 だからこそ沖田はこんなにも多くの感情を見せるのだろう。それはとても幸せなことだと思う。人は人を愛するために生まれてきたのだとあの教師が言っていたから。

「別に悪いなんて言ってねぇよ。人間てめぇの好きなように生きりゃあいい」

 あまりの微笑ましさに高杉は笑って、コーラを吸って変色したシャツを沖田の顔面に投げつけてやった。両手でコーラの缶を持っていたせいで沖田の反応は遅れて見事に直撃する。

「わぷっ。何しやがんでィ、俺怒ってんだぞオイ!」
「ところでお前、本気で今夜ここに泊まる気?」
「その気だけど……うへぇ、コーラ臭っ」

 もとはといえば自分が悪いくせに高杉の服を指でつまんで顔をしかめる。その頃にはもうさっきまでの不穏な空気は消え失せていた。高杉を敵ではないと判断してくれたらしい。高杉の口の悪さは今に始まったことではないし、お互いにそう知らない仲でもないのだ。そして何より沖田は冷めるのが早い。沖田の中にあって冷めないものなんてそれこそ愛とかいう得体の知れない感情くらいだ。

 今なら悪戯をしてもたぶん怒られないだろうか。臭い臭いと言いながらシャツに鼻を押し付けてくんくんとやっている沖田を見て、高杉はにやりと口の端に笑みを浮かべた。

「ところで沖田よぉ」
「ん? 何笑って……っうあ!?」

 高杉の服をつまんだ手を片方の手で捕まえて、もう片方は沖田の頭の後ろに回す。そしてそのまま体重をかけ床に押し倒した。この間わずか2秒。我ながら惚れ惚れするほどの手際のよさだ。あの教師は本当にろくなことを高杉に教えてくれない。

「なっ、おい高杉! てめぇ何の冗談でィ!」
「考えてみたらここ、布団二組しかねぇんだわ。もちろん銀八の奴もいずれ帰ってくるし、招き入れちまったからには俺がお前と一緒に寝るべきだろ?」

 犯行動機を白々と伸べながらもテキパキと手を動かし、コーラ塗れの自分の服で沖田の両手を縛り上げる。簡単には解けないことをきちんと確認してから、同じようにコーラを被ったのにそのままにされていた沖田の服を丁寧に脱がしてやった。

「ってお前さっき男には興味ないってゆったじゃん! この暴漢!」
「本命はな。遊びは別にどうでもいーや」

 語尾にハートマークをつけてにっこり微笑むと、反対に沖田の方はさぁっと血の気が引いていく。その反応があまりにも予想通りで、高杉はおかしくて仕方なかった。
 しかし本当におもしろいのはこれからだ。この悪戯は沖田だけをターゲットにしたものではないのだ。その証拠に、まだ開けっ放しだった窓には何も変化がないがさっき沖田が来たとき以上のすさまじい足音が真っ直ぐこちらに近づいている。

「てっめぇ、高杉ィィィィ!」

 怖い怖い鬼か狼の形相をした上の階の住人が、わざと鍵をかけずにおいたドアを乱暴にぶち開けて乱入してきたのは本当にすぐのこと。
 このままだとあまりにも無防備なので体を起こし、組み敷いていた沖田を座って抱きしめた。コーラ臭いけど温かい。

「ドア壊したら弁償だからな土方」

 ぎゅうっと抱きしめ、戯れに耳を噛む。なかなかに感度はいいのか沖田の体が小さな反応を示した。

「うるせぇ! 今すぐ総悟から離れやがれ!」
「やだ。これ俺の抱き枕ー」
「っ、これ言うな! 死ね! つか俺を離せ!」

 口の悪い枕だけれど抱き心地は案外悪くない。胸はないが腰が細いので抱きしめやすいのだ。本当は土方が来たらすぐに返してやるつもりだったのに、そのせいか高杉の中の悪戯心がざわざわと騒ぎ出した。

「な、土方。これ今晩俺に貸して」
「だからこれ言うな! 俺は人間でィ!」
「大丈夫飽きるまで大事にするから」
「…………サイテー」

 本気で物のように扱われていることに呆れ果てたのか、はたまた高杉の性質をよく知っているからか、沖田はついに沈黙してしまった。もうどうにでもしろといった感じで大人しく項垂れている。
 対する土方は、こちらは殺人でも犯しそうなくらい怖い顔で沈黙していた。

「なんか言えよ。つまんねーだろ」
「俺が大人しくしてるうちにそいつ返せ」
「返さなかったらどうする?」
「奪う」

 握り締められた拳をかわすのはきっと容易い。沖田という盾もあるし、純粋な体術勝負なら間違いなく自分が勝つ。あのクラスで高杉が勝てないのは黒モジャと白モジャの二人くらいだ。
 それでも敵意をむき出しにしてくる土方に、高杉の直感は不思議と勝てないと感じていた。それはおそらく、ただ一つの点に置いて高杉は土方に劣っているから。

「他人なのに、そんなに大切?」
「ああ。自分よりずっとな」
「そっか」

 そんな感情、高杉は知らない。自分よりも大切なものなんてない。だからこそ自分以外の誰かを思う気持ちだけは誰にだって勝つことができない。そのことを悔しいとすら思えないほど、高杉は知らなすぎるから。

「じゃあいーよ。今日はお前に返してやらぁ……ぐふっ」

 途端につまらなくなって沖田を解放してやったその刹那、不意打ちで沖田に腹に一発重いのをもらい、一瞬目の前が真っ暗になる。お前途中からわかってただろ手加減しろよマジ犯すぞ。毒づいてやりたいのに、息が詰まって声が出せないのが非常に気に食わなかった。

「土方さんっ」

 床に沈んで呻いている高杉をよそに沖田は土方へ駆け寄った。土方はすぐさま沖田の手の拘束を解いてやり、ガシッと本当に音でもするんじゃないかという勢いで抱きしめた。死ねバカップル。

「無事か総悟」
「へい。おかげさまで」
「……お熱いことで」

 どうにかこうにか復活しヒュウと口笛を吹くと、土方に怒気を孕んだ眼差しで射抜かれた。一方の沖田はといえばさっきの一発で満足したのかやたら上機嫌にニコニコしていて、やっぱりもっと苛めておけばよかったと痛む腹の底から後悔した。

「高杉、てめぇどういうつもりだ?」
「どういうつもりはこっちの台詞だってぇの。そんなに大事ならくだらねぇことで喧嘩するんじゃねぇよ。そして俺を巻き込むな。無駄に痛いわ心も体も傷つくわ服も床も汚れるわ散々だ。ドアは壊れてたらマジ弁償さすからな」
「は?」

 言葉の意味を図りかね、土方は怪訝な顔をする。全てを理解した上で渾身の一撃をくれやがったかわいい彼女とは大違いだ。土方は成績は優秀だが実は意外と馬鹿なのかもしれない。あるいは鈍感というべきか。

「帰りましょうぜ土方さん」

 まだ腕に抱かれたまま沖田は土方を見上げて言う。それから高杉を振り返り「借りはいつか返す」と告げた。はたしてそれは喧嘩の仲裁に対してなのか、働いた狼藉に対してなのか。後者ならさっきのでもう十分なので返してくれなくていい。

「待てよ総悟。俺はまだこいつに話が」
「それはまた明日にでもしなせェ。ドラマ始まっちまいますぜ」
「いやそんなの今は別に、おい総悟ー?」

 そうして土方の手を引いてすたすたと沖田は帰って行ってしまった。自分の居るべき住処へと。

 よろよろと立ち上がり、閉ざされたドアに今度こそ鍵をかける。ドアはちょっと動きがぎこちなかったけれどこれくらいならきっとばれやしないだろう。もしばれても土方が金を出すだろうからどちらにせよ高杉の懐は痛まない。ちょっとお仕置きされるだけだ。うん、きっとそうだあの暴力教師め。

 いろいろなことを考えながらようやく静かになったなと部屋を見回し、溜息をついて落ちていた二人分のコーラ臭漂う服を洗濯籠に放り込んだ。

 高杉には彼らの間にある絆が理解できない。世界中には星の数ほどの人がいるのに、なぜただ一人その人でないといけないのか。いつか自分にもそんな感情を覚える相手が現れる日が来るのか。
 あんな風に下らないことで怒ったり喜んだり、余裕をなくしてみたり、そういう甘い感情は今はまだ奇妙としか思えないけれど。

「……つか、腹減ったな」

 どうせわからないんだしいいや。それより色気より食い気だ。高杉は思考を180度切り替えて部屋を見回した。
 まだ部屋がコーラ臭いことに少々顔をしかめ、充電器に繋がれたままの携帯を手に取った。携帯は青いランプがチカチカと点滅していてメールの着信を教えている。

 開けてみると思ったとおり部屋主からSOSのメールだった。
 教え子の、それも問題児からの連絡とあればいくら飲み会とはいえ席を立たないわけにはいかないだろう。抜け出すには最良の、角の立たない作戦だ。

 屋台のラーメンが食べたい。イエスもノーもなくそれだけ打って返したメールの返事はさていかなるものか。相変わらずに開け放されたままでいる窓の外に耳を澄ませ、答えを待つことにした。


 待っていれば、いつかきっと答えは歩いて高杉のところへやって来るだろうから。




 黒モジャが坂本で白モジャが銀八先生です。高杉は家出して銀八先生の家に住み着いていて、愛玩動物として日々可愛がられています。

07/06/16