この手が届くまで 仕事の用以外で何も言葉を交わすことはなく、手を繋ぐこともなく、笑うことすらもない。そんな日々も今日でもう一月が経つ。 書類の上でペンを走らせる手を休め、土方はふと後ろを振り返ってみた。そこにはこちらに背中を向けて、猫のように丸くなって眠る沖田の姿がある。いつもならまるで部屋の家具かのように風景に溶け込んでいるはずのその姿が今は、まるで異物だ。 一月前、ひどいことをした。記憶から消去してなかったことにされてしまうほどに、ひどいことを。 傷つけて、泣かせて、嫌いだと死ねばいいと呪いの言葉を浴びせられた。いつもとは違う声色で、本心から言われたのだ。 沖田の言う通り、全て土方が悪かった。土方が沖田を裏切ったのだ。 沖田は本当に土方を憎んでいる。全身で土方を拒絶している。それなのになぜ沖田はここにいるのかいてくれるのか、土方には全くわけがわからなかった。 拒絶しながらも相変わらず沖田は土方の眼の届く範囲に居続けた。決して近くはないけれど、遠過ぎもしない距離を保っているのだ。 理由はわからない。姿を見せることで無言で責めているのかもしれないし、もっと他に何か意味があるのかもしれない。 「総悟」 なんとなく名前を口にしてみた。返事はなく、ぴくりとも動かない。どうやら深く眠っているらしかった。 今なら、もしかしたらと思った。あの柔らかく淡い大地の色をした髪に指を埋めることができるのではないかと。 起こすことのないよう静かに静かに近づいていく。沖田は動かない。ゆっくりと手を伸ばす。もう一月も経つのだ。触れたくないわけがなかった。せめて、ほんの一瞬掠めるだけでもいいから。 「触んな」 肩が、ぴくりと小さく震えた。まだ30cmは間があるはずなのに。それともはじめから眠ってなどいなかったのだろうか。 「……悪ぃ」 土方は大人しく手を引っ込めた。それなのに、なぜか舌打ちが返ってくる。 そして沈黙が落ちた。相変わらず沖田は背中を向けたままでその表情は窺うことができない。土方には何も、わからない。 俺たちは何をしているのだろう。ふと土方の中に暗い疑問が浮かんだ。 触れることも、ろくに言葉を交わすことすらもない。苦痛だけを共有して時を過ごすことに何の意味があるのだろうか。もしかしたら沖田はそのことを土方に伝えるために離れずにいるのではないのか。 本当は、もう離れたいのだと。 「総悟」 もちろん反応はない。それでも気にしないで続けた。 「もう終わりにしようか」 沖田が息を飲むのを聞いた。一緒になって肩が揺れる。 それから沖田は上半身を起こした。やっと土方を見る。畳の上に手をついて、沖田は探るような目をしていた。 「理由を聞いてあげやしょう」 沖田は感情のない声で言った。そのことが土方に言葉を続けさせる。 「仕事の上だけの関係なら、互いにそんな辛くねぇだろ」 「辛いの?」 「辛いよ」 答えると、沖田はきゅっと唇を噛んだ。上目遣いに土方を睨みつける。しかしそれは一瞬のことで、沖田はすぐにまた表情を消してしまった。 その瞳には確かに土方の姿が映っているのに、感情というものを何一つ読み取ることはできない。教えてはくれない。拒絶以外の何もない、心にブラインドを降ろしてしまったかのような瞳が土方は怖くてならなかった。 「昔々あるところに、一人の王様がいました。王様は遠征に行く途中でした」 突然、沖田は妙なことを唱え出した。土方はわけがわからず怪訝に名前を呼ぼうとするが、冷たい瞳に射抜かれてしまう。 「黙って聞きなせぇ」 そして、沖田は続けた。 「その時代、その国にはまだ車も冷房もありませんでした。王様が遠征していたのは真夏のひどく暑い時期で元々体が弱かったこともあり……まあ、この辺は他にもいろいろあるんだけど省きますが、最終的に王様はおかしくなっちまいやした。 王様の目には周りの家来たち、弟や叔父さんさえもみんな敵に見え、王様は無我夢中で剣を振り回しました。……さて、問題です。この時家来たちはどうしたでしょう」 「正当防衛ってことで殺したか、力ずくで取り押さえたかってところか?」 「いいえ」 沖田は首を振った。一瞬、目に優しさが灯る。 「ずぅっとね、待ってたんでさァ。王様が疲れて動けなくなるまで、辛抱強く耐えたんですって。で、このあと長いこと治療したんだけど王様は結局死ぬまで完全には元に戻んなかったそうです。おしまい」 「……実話か?」 「ええ。よその国のお話ですが」 土方の問いに沖田は頷いた。懐かしそうに、いとおしむように僅かだが表情が柔らかくなる。沖田はこの話が本当に好きらしかった。 「実際のところはこの国じゃ王様は絶対の存在だから手ェ出すなんてできないってことらしいんですが、俺は最初この話聞いたとき思ったんですよね。ああ、王様はみんなに愛されてるんだなァって」 まあこの人このまま長いこと王様やってたんで国は混乱したみたいですけどね、と付け加えて笑った。それはおそらく土方ではなく王様に向けられた笑みだったのだろうと思うが、久しぶりに見る沖田の笑みに自然土方の表情もほころんだ。 「それで俺、もしもいつか万が一にも近藤さんがこの王様みたいになっちまうようなことがあったら、俺もおんなじようにしようって誓ったんでさァ」 「ああ、そうだな」 「それと、あんたの時も同じようにしようと」 「っ……」 息が詰まった。ようやく沖田の伝えたいことを理解して。 「あんたは待っててくんねェの」 もうそこには笑みはない。あるのはまた悲しそうな、責めるような目。これが今の沖田が土方に与えられる全て。 その現状を少しでも変えようと、沖田はがんばっていたのだ。当て付けでも惰性でもなく、がんばって土方の側に居続けようとしている。 今やっと、そのことに気づいた。 「俺のこと嫌いになったんじゃないならもっとがんばってくだせェ。……でも、本当に俺のことを辛いとか面倒だとか思うんだったら、もういいです。俺もちゃんと納得するから、そう、言って……」 声が震えてその後は言葉にならない。固く拳を握りしめ、俯いてしまったせいで前髪が瞳を隠してしまった。 一番偉い王様がおかしくなってしまい、家来も民もさぞかし困ったろうと思う。しかし当の王様は誰よりも心を痛めていたのかもしれないと考えた。少なくとも土方が王様の立場だったなら、きっとそう思ったはずだ。いつこの手を離されても、恨みはすまいと。 「辛いよ。俺は、すごく辛い」 触れられないのも、笑ってもらえないのも、一人でがんばっている姿を見るのも全て辛い。できることならこんな思いはしたくない。 「土方さん、じゃあもう俺たちは……」 「お前のことが好きだから辛いんだ」 濡れた瞳が土方を見た。抱きしめたい衝動を抑えるため今度は土方が拳をきつく握り締める番だった。 「それと、なにもしてやれねぇのがすげぇ悔しい。ごめん、全部、俺が悪いのに」 「……ひゃくろくじゅうよんかいめ」 沖田の指が土方のスカーフを絡み取り、引っ張った。たぶん本当は胸倉を掴みたかったのだと思う。 「あんたが俺に謝った回数でさァ。俺は、あんたの口からそんなことが聞きたくてがんばってるんじゃねェのに」 沖田は怒っていたが、同時に悲しんでいるように見えた。ごめんとまた謝りそうになって言葉を飲み込む。どんな言葉なら許されるか、いや喜ばせることができるかと考えた。自分にできる唯一のことをやっと見つけたから、真剣に考え込む。しかし結局出てきたのはシンプルな一言だけだった。 「好きだから、がんばって」 「へい。がんばりまさァ……だから、もっと言って」 この時初めて沖田は土方に向けて笑ってくれた。 触りたそうに手を伸ばす。その手はまだ土方に届きはしないけれど。 「好きだよ」 その日まで絶対に待ち続けようと誓った。 元の関係に戻れたらきっと二人は前よりラブラブなんだろうなあと思いながら書いていました。 王様の話は一応モデルがありますがあくまでモデルなので何か違っていても突っ込まないようお願いします。 【参考資料】 フロワサール『年代記』(J.Froissart, Chronicles, selected, translated and edited by Geoffrey Brereton, Penguin Books, 1968) 07/12/25 |