燭光 1


 副長が女に振られたらしい。

 俺がその噂を耳にしたのはたぶん順番としては最後の方で、その時には既に隊内で知らない奴は一人としていない状態になっていた。
 土方さんの女遊びは今に始まったことではない。俺の知る限りでは俺がガキの頃から残念ながらもうこんなだった。最低だ不潔だクソ野郎だとあの頃は思ったものだが、もちろん今でもそう思っている。当然だ。

 そんな土方さんなので遊んでくれる女の人はたくさんいる。らしい。お互いに遊びだから、どちらかが飽きたら切れるのだそうだ。そしてまた思い出したように繋がったり切れたり。変な話だ。大人って汚い。
 そういう切ったり切られたり繋がったりはいつものことなので、今更誰も会話に出したりはしない。今回の噂のミソはここなのだ。

「なんか本気だったらしいぜ副長」
「うっそだぁ、ありえねって絶対」

 自称事情通のある隊士曰く、土方さんはかなりその女に入れ込んでいたらしい。どれくらいかというと、他の女と遊ぶのをやめて一人に絞ってしまったくらい。身請けして手元に置くつもりだったのではないかとまで噂されている。

 あの土方のクソ野郎に限ってそんなことあるはずがない。生涯女を遊ぶ対象としてしか見ることはなく、いつか自分が捨てた女の中の一人に背中をぶすりとやられて息絶えるのだと、今日まで俺は何の疑いもなく信じていた。だから他の女に先を越されないよう早く暗殺しなくてはと常日頃からがんばっていたのに。しかしもしこの噂が本当なのだとしたら、ちょっとだけ見直してやってもいい。クソ野郎からゲロ野郎くらいには昇格してやろう。口から出る方がたぶん、ほんのちょこっとだけきれい。

「でもあの土方の野郎がそこまで惚れるなんて、相手はどんだけの別嬪なんでィ?」

 俺は土方さんが非常に面食いであることを知っていたので、ただ一人の相手として選ばれた女というのが一体どれだけのものなのかかなり興味があった。

「若い遊女の子ですよ。ハタチって言ってたけど、あれたぶんまだ十代じゃねーかなぁ。童顔のすっげ美少女で、色白で小顔で、栗色の髪が藤色の着物によく似合うんだよなあ」
「そうそう、俺も一回だけちらっと見たけどそりゃあもう可愛かった」
「ふーん。でも土方さん好み違くね? つかロリコン?」
「いやいやいや俺ら二十代っすよ。17,8くらいなら犯罪ってほどでもないでしょう。確かにいつも遊んでるお姉さんたちとはかなりタイプ違うけど」

 でも土方さんが俺と同じくらいの年の女に手ぇ出してたら、なんか犯罪くさい気がするんだけどなァ。なんていうかインコーくさい。いかがわしい。元々人妻とか大人の美女というのが土方さんの好みであることを俺はよく知っているので、なんか尚更そのチョイスが非常にいけないものに思えた。

「しっかしあれ、副長かなりマジだよな。今だって出かけてんの絶対また口説き行ったか自棄酒だろ?」
「よしじゃあ俺土下座に一万円」
「俺は酔って喧嘩してうちに出動要請来るに500円」
「ぎゃっはははは、そりゃありえねー!」

 それから話はだんだん噂の遊女とやらを見に行こうという方向になってきて、俺にはつまらない感じになってきた。保護者二人の圧力がかかっていて俺は絶対そういうお店に連れて行ってもらえないのだ。なのでかわりに写真を一枚頼んでそのまま退室した。

 この調子だと夜勤の連中以外は全て色町に食べられてしまうんじゃなかろうか。薄給でみんなよくがんばるものだ。
 俺だけ一人お留守番っていうのはちょっとおもしろくないが、それならそれで都合がいい。自分の部屋で時間を潰してみんなが出かけるのを待って、俺はこっそり監察の備品室へ忍び込むことにした。

 別名宴会準備室とも呼ばれるここにはたくさんのおもしろい玩具がある。中でも最大の目玉は変装道具だ。着ぐるみやらどこかの学校の運動部のジャージやら、税金の使い道がこれで許されるのかと不安になる物たちで溢れている。
 藤色とは少し違う気がするけど淡い紫の着物を見つけてそれに決めた。ちょっとずれているくらいの方がこういうものはおもしろい。更に栗色はなかったけど黒のウィッグも見つけ、まとめて手早く身に着けた。残念なことに着付けにはかなりの自信がある。全く持って不本意だ。

 いつもなら女装なんて絶対にしない。死んでもしない。そんなことをするくらいなら素手で戦車に立ち向かえと言われた方がまだ心安らかでいられる。しかし今回はそれ以上にこの悪戯への土方さんの反応に強い興味があったので、自分の中で特例として許可をした。
 怒るだろうか。それほどまでに愛しているだろうか。もしそうなら少しだけ、前より優しくしてあげてやってもいい。土方さんが人を愛せる存在であればいいと俺はいつも思っているのだから。

 全てきちんと装備して試しに姿見で確認してみた。詰め物をしたりとかそういうことは一切していないのでちょっと難があるが、まあこんなものだろう。化粧も面倒なので省略だ。いくらなんでもそこまでしたらドン引かれそうだし。

 そんなわけで準備を終えて、人の気配のないことを確かめてそろりそろりと土方さんの部屋へ向かった。
 段取りはこうだ。土方さんがしょぼくれて帰ってくると暗い部屋に人の姿があって、件の女(そういえば名前を聞くのを忘れた)かと思えば正体は俺でがっかりする。その後は場合によっては酌でもして慰めてやってもよし。ちょっとタチが悪い悪戯といえなくもないが、これくらい過去に泣かされてきた女の数を考えるとたぶんそれほどでもないはずだ。たぶん。

 しかし俺は土方さんの部屋にやって来て初めて計画の穴に気付いたのだった。いつ土方さんが帰ってくるのか知らないのだ。これであの野郎が朝まで帰らなかったら俺はただのアホではないか。いい笑い者だ。
 とはいえせっかく来たのだし、眠くなるまで待ってみよう。それで駄目ならあちこちに罠を仕掛けて困らせる作戦に切り替えよう。そういうことにしてとりあえず勝手に布団を敷いてごろごろしながら待つことにした。

 布団は俺の部屋のものとは違い煙草の匂いが染み付いている。臭い。しかもところどころに黒い焦げ跡がある。でも寝転がっているとまるで土方さんに寄りかかっているみたいだった。なんだか子供のころに戻ったようで、着物が崩れるのも気にせずそのまま目を瞑ってみる。途端に時間も遅いせいで甘い眠気が俺をくすぐりだして、ここではない別の場所へ引きずり込もうとする。

 土方さんが惚れた女というのは一体どんな人物なのかとまた考えた。しかし本当はどうでもよかった。相手が誰であろうと別に構わない。幸せになってくれさえすれば、それでいい。そんなこと今まで一度も言ってやったことはないし、これからも絶対に言ってやる気なんかないのだけど。

 もしも土方さんが誰か一人を選んで、幸せそうに笑うようになったなら、俺の中にある非生産的な感情も諦めてどこかへいってくれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていた。それは悲しかったり苦しかったりするのかもしれないけれど、全ては一時的なものだ。きっといつかは受け入れられるだろうし、そうでなくてはならない。間違っても絶対にほしがったりしてはいけない。本当に、なくしたくないくらい大切なら尚のこと。

 ギシ。床の軋む音で、重くなってきた目蓋をなんとか持ち上げた。瞬きをして眠気を逃がし嘘吐きの皮を被る。手をついて上半身を起こしたところで障子が開いた。

 目が合う。

「蛍」

 それが女の名だろうか。うとうとしていたせいで思考が鈍かった。違いますよと言おうとした頃にはもうタイミングを逃してしまったことを悟り、ただ、息を詰める。

 あっと思った時には抱きしめられていた。子供のときとか互いに酔っている時とかに抱きついたり抱きつかれたりしたことは今までにもあった。でもこんなのは初めてだ。情欲を込めて抱きしめられたのは。
 ひどく酒臭いが抱きしめる腕には確かな力があった。息ができない。それに、熱い。

「土方さ」
「ごめん」

 耳元で囁かれると肌が粟立った。

「許してほしいとは言わねぇ。ただ、誰にも言わないでほしい」

 何を。俺には何のことだかわからなかった。わかるわけがない。俺は蛍ではないのだから。胸が切なさに小さな泣き声をあげたのは聞こえないふりをする。

「離してくだせェ。俺は、あんたの想い人なんかじゃありやせん」
「ああ」
「え?」

 肯定された。混乱がひどくなる。違うとわかっているならどうして俺は抱きしめられているんだろう。それともただの酒が作り出した矛盾なのか。

「本当はお前じゃないんだ。ずっと、お前に別の影を重ねていた」

 ごめんともう一度囁かれた。
 どうして。浮かんだ言葉は勝手に音になってしまっていたらしい。土方さんは似ていたんだとどこか寂しそうに呟く。

「笑った時の雰囲気とか、そういうのがよく似ていたんだ。俺の、本当に大切な人に」
「……じゃあどうしてその人を愛せねぇの?」

 ほしいものは全部手に入れる性分のくせに。一番ほしいものに限ってかわりで我慢するなんて変だ。卑怯だ。ずるい。そんな風に思うのは全部俺の我侭なんだろうけど、どうしてもそう思ってしまう。だって俺は今までずっと願っていたから。

「俺はあんたにちゃんとまっすぐ一人の人を愛せる人間になってほしいんでさァ」

 でないとこの汚れた感情をいつまでも捨てられないから。いつかなんて来もしない馬鹿げた未来を夢見てしまいそうになるから。

 いつかあなたが本当の愛を知ったとき、名前を呼んで手を差し伸べてくれるのではないかと。

「総悟?」

 心臓が冷たくなった。ばれてしまったのだ。相当酔っているから平気だろうと思ったのに。はじめはからかってやるつもりだったくせに、こんなことになってしまうともう恥ずかしさでどうしようもなくなった。どうやって言い逃れすればいいのかわからない。最悪だ。

「あの、これは……」
「悪ぃ。また重ねてた」
「え?」

 土方さんは苦く笑って、すまなかったとウィッグの髪を撫でた。
 ばれたんじゃないのだろうか。わからなくなって、混乱して無防備だった頬に唇で触れられた。

「へ」

 軽く肩を押され、仰向けに寝かされる。あまりにもびっくりしすぎて動けなくなった。だって顔の両側に土方さんの腕が。

「抱いていい?」

 あの流れでどうしてそうなるんだろう。確かに俺はご丁寧に布団の上にいたけど誓ってそんなつもりじゃなかった。でも土方さんからしたらこの状況は最後に一度だけと思って忍んで来たように見えてしまうのかもしれない。

「ひ、土方さん俺は」
「これで本当に最後にするから。お前のこともあいつのことも、みんな忘れることにする」

 そう、俺を見下ろす土方さんはとても寂しそうで、辛そうだった。
 どうしてそんな顔をするんだろう。好きなら愛してあげればいいのに。こんな風に誰かに投影するのではなくその人自身を。それが正しいあり方であるはずなのに。

 そうだ、さっき名前を呼んだ。俺の名を。
 ……俺の名を?

「ねえ、あんたは誰を重ねていたの?」
「もう言わねえ」
「教えて」

 沈黙が落ちる。俺はじっと土方さんを見上げて続きを促した。
 どくどくと早鐘のように鳴る鼓動は何かを祈っている。それなのに自分でもどちらの未来をほしがっているのかはわからない。どちらもほしくなんかないのかもしれない。

「総悟っていうんだ。ずっと一緒に、兄弟のように育ってきた」

 どうして。

 ずっとそうなったらいいと願っていた。そして同時に、決してあってはならないとも信じていた。だって俺はこの人に幸せになってもらいたいんだ。いつか本当の家族というものを手にして、それがどんなに優しくて温かいものかを俺に教えてほしかった。そうしたら俺はよかったですねって、言いたかったんだ。本当にそれだけで十分だったのに。大切すぎて、触れることなんてできやしなかったから。

「馬鹿ですねィ。俺も、あんたも」

 もう頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしていいのかどうしたいのかわからなかった。何度も声にならない「どうして」を繰り返す。胸を絞めつけるのは自嘲と空しさといとしさと、あとなんだろう。

「怒った?」
「呆れやした」
「誰にも言わないでくれ」
「……言えるか」

 当の本人にさえも。

「ねえ、いつから?」

 どうしても気になって尋ねてみた。

「覚えてねえよ。自覚する前からずっと、たぶん追いかけていたんだろうな」
「変なの」

 おかしさに小さく笑う。俺だってずっと前から追いかけていたんだ。その俺をこの人も追いかけて、それなのにいつまでたっても二人とも追いつけない。それとも本当は互いに逃げ続けていたのかもしれない。だって土方さんは蛍に俺を投影し、俺は蛍に化けている。

 たぶん俺たちは知っているんだ。本当に望みを叶えてしまうことの罪深さを。そんなにも深く繋がってしまったら、たっ一人の人のために捨てると決めた命が惜しくなってしまう。あるいは一番に守るべきものを忘れ、順番を誤ってしまうかもしれない。その時こそこの感情は、本当の罪になる。

「蛍?」
「……なに」
「泣きそうな顔してる」

 そんなつもりじゃなかった。笑っているつもりだったのに、この近さでは全て見透かされてしまいそうで怖かった。正体も本心も何もかも。

「俺のせい?」

 目の縁にくちづけを落とす。そこから熱が生まれてもう、どうにかなりそう。

「好きじゃなくても、そんな風に触れるんですね」
「ああ。だから軽蔑されてる」

 あいつに。

 土方さんの言うあいつが誰のことだかなんて考えるまでもなくて、本当に泣いてしまいたくなった。いつもなんでもない顔をしていたくせに、深いところは傷ついていたりしたのだろうか。そんなの少しも、考えたこともなかった。

 俺はずっと、土方さんが遊びじゃない本当の愛を知ってくれたらいいと思っていた。俺にとって土方さんは特別な人だったから。本当は軽蔑していたんじゃなくて自分の馬鹿げた本心に途方に暮れていたんだと、告げたらあんたはどんな顔をするだろうか。

「幸せになってほしいんでさァ」

 俺とじゃきっと、あんたは死ぬまで悩んだり苦しんだり嘆いたり、そういうものから解放されなくなってしまう。それは俺が望むことではないから、だから俺はあんたが俺以外の、できたら戦いに疲れたあんたを癒したり支えたりできるような、そんな女性とつがいになってほしいと願う。願おうとしている。全力で。

「お前も俺みたいなのじゃなくて、もっとちゃんとお前自身を見てくれる奴と幸せになってくれ」
「そうですね。その方がきっと、お互いにいい」

 これは土方さんから蛍への言葉。でも返したのは俺から土方さんへの言葉。

「さっきの言葉、全部終わりにするって言ったのちゃんと守ってくれますか?」

 その想いを断ち切ると、誓ってください。そうしたら俺も誓うから。

「……守るよ」
「絶対ですよ」
「…………」

 初めて手を伸ばした。頬に触れる。でもこれは俺の手ではなく蛍の手だ。

「約束してくれるなら、今宵一晩蛍はあなただけのものになりましょう」

 これは蛍の言葉。

「蛍ではなくどうぞ、あなたの呼びたい名をお呼びくださいまし」

 ずるい、卑怯な俺の願望。

「そうして朝がきたら新しい愛をみつけて?」

 心からの、願いと祈り。

 土方さんはそんな俺を哀れむように見下ろしていた。すまないと繰り返す。謝るべきはたぶん俺のほうなのに。この人にも蛍という人にも俺は、とてもひどいことをしている。

「総悟」

 土方さんの口が偽りの名を呼んだ。偽りの蛍の唇にキスをする。はじめは触れるだけで離れて、総悟と唱えて二度目は熱い舌が差し入れられた。あまりの熱さに眩暈がする。
 少しだけ怖さと不安で自分が震えているのがわかった。恐る恐る手を背中に回してみる。弱く抱きしめたら強く抱きしめ返されて、息苦しさと驚きに土方さんと声にしたら薄く笑って総悟と呼ばれた。その笑みは誰に向けられたものだろうか。


「総悟、――――」


 ずっと、夢にまで見たような囁きをくれる。
 「俺も」と答える勇気は、ない。






09/03/22