胡蝶係恋 3


 まるで呪いだと思った。
 あれから部屋に戻っても一睡もできずいつの間にか朝がきていて、壁にも二回ほどぶつかって、さすがに他の団員たちに心配され始めたので少し外の空気を吸って気分を変えようとしたら今度は傘を持っていなくて絶望した。もう駄目かもしれない。真剣に、冗談抜きで己の心配をする。

 意外だったことは認めよう。しかし一体どうして、あれの何が、こんな絶望的なまでの動揺を招いたというのか。いくらなんでもここまでショックを受けることではないはずだ。うっかり上司の別の一面を見てしまった、それだけのことではないか。
 それなのに、あれからずっと憂鬱で堪らない。あの微笑みが、神威の言葉が、思い出したくもないのに何度も頭の中で勝手に再生されるのだ。いつまでも擦り切れることなく鮮明に、奇跡の瞬間を見せ続ける。

 阿伏兎にとって神威は我が儘で気まぐれで、王様で、年下の上司で、理想の夜兎なのだ。それ以外の形など望むことも考えたこともなかった。しかし昨夜の神威は紛れもなく阿伏兎の知らない子供の形をしていて、彼の世界に阿伏兎は存在していなかった。きっと他の団員も春雨も、もしかしたら鳳仙ですらまだ存在していないかもしれない。そんなとても小さな世界で息をしていた、奇跡の生き物。阿伏兎が本来会うはずのない生き物。

 あれが神威の本質なのだろうか。だとしたら相当歪められたものだ。誰が奇跡の生き物を壊したのだろう。阿伏兎の気に入るあの不可思議な歪みを抱いた美しい生き物を作り出してくれたのは。
 考えられるとするならば、ただ一人。

 神威の。

「……馬鹿馬鹿しい」

 阿伏兎は一人毒づいて首を振った。もう余計なことを考えるのはやめよう。
 昨夜は奇跡のイリュージョンだったのだ。きっともう二度とあんなものに会うことはあるまい。だから全部知らないことにして、臭いものには蓋をして、今までどおりでいいではないか。どうせあちらに帰れはしない。そして一度歪んだものはもう元には戻らない。だから失う心配など、必要ない。

 早く気持ちを切り替えよう。自分に言い聞かせて、ようやく戻ってきた自分の部屋の前で吐息を漏らす。慣れた手付きでタッチパネルを操作してロックを解除。今阿伏兎に必要なのはほんの少しの休息だと自覚していた。

「あ、阿伏兎帰ってきた」

 シュン、と軽い音をさせて阿伏兎を迎えてくれた誰もいないはずの部屋には、なぜか今最も会いたくない相手が住んでいた。ベッドの上に靴のまま転がって、端っこから頭だけ垂らして逆さまになってこちらを見上げている。三つ編が床の少し上のところで振り子のように小さく揺れる。

「……なんでいるんだよ」
「いやなんかね、阿伏兎が今おもしろいらしいと風の噂に聞いて」
「誰だよあんたにチクったの……」
「あ、そうだ。有休でもあげようか?」
「いらねえよ。こんな何もない星でもらっても使いようがねえ」

 それにどうせ近頃は毎日休暇同然だ。くれるならむしろ反対に仕事がほしい。憂いも迷いもいらない戦場へ行かせてくれ。あそこならきっとここよりはるかに心安らかでいられるから。あそここそが夜兎の安息の場所。

 これでもう何度目の溜め息だろう。疲れたように息を吐く阿伏兎をベッドに寝そべったまま眺めていた神威は、両手を使わず体をバネのようにして起き上がった。
 ベッドから降りると無防備に阿伏兎のところまでやってきて、深海のような瞳で不思議そうに、まるでそこに何かを探すみたいにじいっと阿伏兎の瞳を覗き込む。その瞳があまりにも真っ直ぐ阿伏兎を見つめるので、ひょっとしたらその深海の瞳は不安も憂いも全て見透かしているのではないかと怯んだ。

「珍しいね。ご機嫌斜め?」
「っ……」

 興味深げに背伸びをして顔を近付ける。伸ばした指が阿伏兎の灰色の髪に絡まる。猫のように笑う姿はあどけなさを残しつつも、やはり子供のものとは違った。昨日、阿伏兎の知らない誰かが見せたものとは全然違う。

「それともお化けにでも会った?」
「……かもな」

 こっちの方がいい。本物であることを確かめたくて手を伸ばしてみても、神威は何も言わなかった。自分から阿伏兎の腕の中にやってきて、阿伏兎のよく知る笑みをたたえてこちらの様子を窺っている。ちゃんと温度のある生き物であることに安堵した。

「なあ、いつまでこの星にいるんだ?」

 もうこの星にはいたくない。きっと退屈だから余計な物思いばかりしてしまうのだ。もう血の香る戦場へ帰りたい。あそこならば神威だって下らないままごとに興じることもないだろう。
 もうあの子供も、子供を愛でる神威も見たくはないのだ。それにあんな亡霊じみた奇跡の生き物も。

「なあ、団長」

 きれいに結われた髪に懇願のくちづけを落とす。請われてもいないのに阿伏兎の方から触るのはいつぶりだろうか。珍しく甘えてくる阿伏兎がおかしくて堪らないらしく神威は忍び笑いを零しながら上向いた。その赤い唇に触れると神威も唇を薄く開けてじゃれるように甘く噛み付く。

「そんな顔しなくても、もう近いうちにここを発つよ」
「え?」
「うれしい?」

 そんな顔をしていたのだろうか。神威は唇をぺろりと舐め、おかしそうに笑った。

「もう準備は進めさせているよ。阿伏兎に伝えようと思ったのになかなか見つからなかったからさ」
「でも、なあ団長。あの……」
「ん?」

 あの子供はどうするのか。連れて行くのか。
 聞かないといけないのにまだ恐れていて、声が喉に詰っかえて出てこない。神威はそんな阿伏兎をゆるりと細めた深海色で見上げていて、覗き込んだら今にも溺れてしまいそうだった。あるいはもう、手遅れか。

「ところでさ、ちびを見なかった?」

 やがて諦めたのだろう。神威が待つことに飽きるくらいのそこそこ長い時が過ぎて、話題は悪い方へと転がされた。意図的なのかもしれない。ここであの子供の居所を尋ねるということは、やはりそういうことなのだろう。阿伏兎は深い深い落胆をして、しかしそれを決して悟られまいと溜め息を押し殺した。

「……いや、見てねえけど」
「そっか、じゃあいいや。起きたらいなくなっていたから、阿伏兎の方に行ったかと思ったんだけど」
「そんなわけねえだろ」
「そうかな」

 なぜそこで阿伏兎のところに行く可能性に思い当たったのか。阿伏兎がこっそり葬ったことを疑っているのなら、それはかなり核心をついているのだけど。どうせならやっぱり本当にそうしておけばよかっただろうか。共に連れて行くというのなら実行するにはまだ遅くはないはずだ。

「阿伏兎」

 悪い考えを見透かして射ぬくような声で呼ばれ、びくりと小さく肩が跳ねた。神威は何かを待つように阿伏兎の瞳を見つめ返していたが、やがて会話に飽いたのか唇の端に触れるだけのキスをして体を離した。不意に捕まえたい衝動に駆られ、自制する。神威は一歩ほどの距離を保ったままチェシャ猫のように微笑んだ。あの童話を我が耳に聞かせたのは、確か他ならぬこの目の前にいる上司だったはずだ。どこの星の物語なのかは本人も知らないらしい。

「亡霊の殺し方を教えてあげようか」

 刹那で一歩の距離を縮め、今度は正面ではなく隣へ降り立つ。少しだけ背伸びをして阿伏兎の耳元へ悪魔の囁きをした。

「あのね、亡霊の宿るものを壊してしまえばいいんだよ」

 何かを問う時間は与えてもらえなかった。背後でシュンっと音を立ててドアが開く。神威は阿伏兎が何か言葉を投げるより先に、軽快にドアの向こうへ消えてしまった。自動で再びドアが閉まり、阿伏兎一人が取り残される。

 どうにもひどく混乱していた。昨日の夜と同じように心臓がやかましく鳴っている。
 はじめはあの忌まわしい子供のことを言っているのかと思ったが、よく考えるとそれではおかしいのだ。亡霊というのは過去に生きた何かが存在していなければ成立し得ないのだから。あれは災いであって亡霊とは違う。

 それでは亡霊とは誰か。神威はなぜあんな奇妙なことを言って、自分はそれにひどく動揺しているのか。
 亡霊。そう、ぽつりと唇に音を乗せてみると今までそこに残っていた神威の名残がふわりと散って消えていくようだった。

 亡霊。もう一度繰り言する。一体誰の。


『おいで。かぐら』


 不意に頭の中であの声がした。阿伏兎の知らない奇跡の生き物の声。過去から響く声。

「あっ……!」

 過去の亡霊。阿伏兎の知らない時の中から現れた、『団長』ではないただの『神威』という名前だけを握りしめていたであろう子供。
 あれこそが阿伏兎の動揺の根源だった。そして神威の、お化けでも見たのかという問いかけ。
 やっと全てが繋がった。

「……嘘だろ」

 不可解な海の底から見つけだしたのは最悪の答えだった。神威はやはり昨日の夜のことを知っていたのだ。そしておそらく阿伏兎の抱いた絶望的な感情も掬い上げていた。本当にあの深海の瞳は全てを見透かしていたのだ。

 理解が及んだ瞬間、がーっと耳まで火照るのを自覚した。思わず顔を片手で覆って瞑目する。なんたる失態だろう。穴があったら更に深く掘り進めた上でオリハルコン製の蓋をして引き籠りたい。

 追いかけなくては。そして何か、フォローを。何に対するフォローなのか全くわからないままに真っ先にそんな考えが浮かび、衝動だけで部屋を飛び出した。取りに戻ったはずの傘をまた忘れていることにも気付かずに。

 もう通路の左右に神威の姿はない。考えられる候補は4つ。一、自分の部屋。二、食堂。三、宇宙船の外。四、あてもなく徘徊。
 食事の時間は過ぎているし昼寝には少し早い。そうなると外か中を徘徊している可能性が高くなる。候補を上げたところで全く絞れていないあたり、やはり動揺しているのだろうと客観的に分析して泣きたくなった。最近は以前より振り回されることが増えた気がする。

 どうせまだそう遠くへは行っていないだろう。スタートは左か右かの二択なので確率は二分の一だ。仕方がないので目撃証言を得つつ探すことにして、ひとまず外への出口に近い右側の道を選ぶことにした。できることなら船の中で捕まえたい。もうこの星の景色を見ることさえ精神の害だ。

「あぶと」

 右だと決めて五六歩いったところで後ろの、部屋を出て左のつまり反対側の通路から声がかかった。探していたはずなのに思わず身が竦む。まさかこんなに早く、向こうから見つけられるとは思わなかった。

 どうしよう何を言おう。全て忘れてくれと言うのも、冷静になってみるとこちらの台詞ではない。そもそも何を慌てているのか自分でもよくわかっていないのに。駄目だひどく混乱している。

「あぶと?」

 もう一度呼ばれ、磁石に引かれる鉄のように自分の意思とは関係なく体が後ろを振り返る。しかしそこにあったのは予想していたうら若き王様の姿ではなく、もっと小さな子供だった。
 ただし、ピンク色の髪と深海色の瞳をした。

「な……!?」

 背丈はまだ阿伏兎の膝丈ほどしかなく、大きな瞳をあどけなく見開いて少し首を傾げたようにこちらを見上げている。肩にかかるかかからないくらいの髪がはらりと一緒に傾いて桜の枝のように揺れる様は否定しようのない既視感を覚えた。

 どんなに少なく見積もっても明らかに阿伏兎の知る神威より10歳は若いだろう。しかし髪や瞳の色だけではなく散りばめられたパーツ全てによく知る面影がある。よく似た別人などであるはずがない。
 さっきまで普通サイズだったというのに、ほんの数分で何が起こればこんなことになり得るのだ。たとえば変なものを拾い食いしたとか、変な人からもらったものを食べたとか、あとは食べた物が腹の中で超反応起こしたとか? そういえばちょっと前に不気味な人面林檎を食べていたがまさか。

「……うわあ、頭痛え」

 春雨最強部隊の団長がちびっ子なんて許されないだろう。情けない。年齢に不安ありで解任なんてされた日には目も当てられない。それにこのなりでは一人で歩かせておくだけできっと迷子扱いされて大騒ぎだ。しかも成長期などきてみろ。宇宙船の食糧庫をどれだけ増設せねばならないのか想像もつかない。食費も込みで追加予算申請を会議にかけてもらわねば。

「ああああああ……」

 考え始めたら次から次によくない考えが浮かんできて、頭を抱えて蹲る。そうだまずはサイズの合う服と靴と箸を調達しなくては。他に急を要するものは。

「あぶと?」

 いつの間にか蹲った阿伏兎の目の前まで神威は寄ってきていて、一緒にしゃがみこむと心配そうに阿伏兎の顔を覗きこんだ。姿形は幼くとも、あの吸い込まれそうな深海色を宿した瞳だけはどこも変わらない。真っ直ぐに阿伏兎を見上げ、いつものように背伸びをして、小さな手で阿伏兎の顔に触ろうとする。

「なあ団長、一体何が……」

 その先の言葉を続けることはできなかった。刹那、まるで世界中を凍てつかせるような、寒気と呼ぶことすら生ぬるいものが一瞬にして空間を侵略する。阿伏兎自身も凍らされたかあるいは金縛りにあったかのように体の主導権を強制的に剥奪されるのを自覚した。

 それが背後からの殺気であることに気付くのにはそう時間はかからなかった。なぜなら阿伏兎はこの殺気を知っている。滅多に見せない本気の、どこまでも研ぎ澄まされた純然たる力の権化。しかしその持ち主は今、背後にいられるはずがないのだ。

「言ったはずだよ。それは俺のだってね」

 その声は紛れもなく阿伏兎のよく知るものである。この子供の少し高いそれよりはるかに耳に馴染む。
 これは一体どういうことなのか、振り返って確かめたいと思うのにまだ体が動かない。心地いいほどの殺気に冷や汗が顎を伝い落ちた。

「ううう……!」

 阿伏兎の目の前にいる小さな神威が低い獣のような唸り声を上げた。もうその眼は阿伏兎を見ていない。阿伏兎の体躯の向こうにいるもう一人に全ての意識を注いでいるようだった。

「があああ!」

 吠え声を上げて子供が地を蹴り、阿伏兎の頭上を飛び越えた。その途端ぱっと阿伏兎の体を戒めていた殺気が解けたのを自覚する。弾かれたように振り返ったそこには阿伏兎の予想どおり二人の神威がいた。一人は幼い子供の姿を、もう一人はよく知る青年の姿をして。

 子供は天井高くまで飛び上がるとくるりと体を反転させ、天井を蹴る力を利用して青年神威に襲い掛かった。青年神威は面白い見世物でも眺めるように目を細め、不敵な笑みをして手を前に差し出す。おいで、唇が優しい音をさせて紡いだ。

 二人の神威の力の差は歴然だった。そもそもあまりにもサイズが違いすぎるのだ。子供の握り拳は対象に届くことなく頭を押さえられて動きを止めていた。みしみしと子供の頭蓋の軋む音が阿伏兎にも届く。しかしそれでも子供は闘争本能を失ってはいないのか、ぐるぐると歯を剥いて唸り声を上げながら小さな手が、しなやかに長い腕を引っ掻いていくつもの赤い線を作っていた。青年の方が子供の予想外の抵抗に、へえと興味深そうな感嘆の吐息を漏らす。

「ううううう! ううううう!」

 子供の唸り声がだんだん悲痛な色を帯び始め、青年はふっと口の端を持ち上げた。ああ、あれは気に入ったものを見つけたときの笑みだ。
 阿伏兎がそう悟ったのと同時に神威は手を離し、子供はゴミのようにぺしゃっと床に落ちた。

「まだ弱いね。つまんないや」

 子供は地面に落ちたまま動かない。伏したまま獣じみた唸り声を上げているので意識はあるようだが、神威はもう子供への関心を失ったようだった。子供によって傷つけられた腕をぺろりと舐めながら、いつものからからとした軽薄な笑みをして阿伏兎のほうを向く。

「さて、どっちが本物でしょう?」

 最早二人の神威の違いは歴然だった。紛れもなくこちらの神威が第七師団の、阿伏兎の仕える団長だ。外見はもちろん、あの凍りつくような殺気だけは一度この身に浴びたら二度と忘れられない。

「団長、そっちのお子さんは一体どちら様で?」

 阿伏兎は問いに答えるかわりにまだ地面に突っ伏している子供を顎で差して尋ねた。そっくりさんというにはあまりにも似すぎている。まるで昨夜の悪夢が形をもって現れたかのようではないか。

「誰って、今まで俺と一緒にいただろ?」

 何をおかしなことを問うのかと言わんばかりに神威はことんと首を傾げた。しかし首を傾げたいのはこっちである。確かにこの頃の神威は子供を傍に置いてはいたがこんな愛らしく悪夢のような容姿ではなかったはずだ。髪は黒かったしそもそももっとずっと小さかった。瞳の色は、ええと、何色だったろう。

「だからー育ったんだってば。俺そっくりに」
「いやいやいや! あり得ねぉだろ。似すぎとかそういうレベルでもねぇし早すぎるって」
「えーそんなに俺に似てないよ。そもそもメスだしこいつ」
「うっそ!? ついてないだと!」
「阿伏兎、下品……」

 思わず子供の下半身を凝視して叫ぶと神威が半眼で呆れたように呟いた。あんたには言われたくないと思わないでもないが、今はそんな話を掘り下げている場合でもないのでひとまず置いておく。

「どうにもさっきから話が噛み合わない気がする」
「同感だな。俺もだ」

 阿伏兎は状況が飲み込めず、神威は飲み込めない理由が理解できない。二人が噛み合わないのはこの点が原因であることは明らかだ。
 二人はわかりあえるポイントを求め、相変わらず起き上がることもせずに臥している子供に視線を落とした。

「なあ団長、これはどう考えてもあんたが拾ってきたときと変わりすぎだろ。イメチェンどころの話じゃねえぞ」
「実のところ俺もここまで急激に変わるとは思ってなかったんだよね。夜兎の血はこいつに強すぎたのかな」
「……何の話だ」
「だから、こいつの餌の話」
「餌?」
「だから、これ」

 そう言って神威が指差したのは、先程の子供とのやり取りで傷ついた己の腕だった。引っ掻き傷ごとき無論既に跡形もないが血の痕跡だけはまだ残っている。しかしまだ阿伏兎には神威が何を言いたいのか見えてこない。

「はじめにこの星に降りたとき、阿伏兎も一緒に聞いただろ?」
「はじめに?」

 うん、と神威は幼子のように頷く。はじめといえばあれだ。この星の文明の低さに絶望した。何せ銃火気を棍棒がわりに使って戦争していたのだ。それともう一つ困ったのは。

「……あ」
「あ、そっか」
「もしかして、あの時の会話……!」
「阿伏兎は言葉がわからなかったんだ」

 どうして今までこんなにも会話が噛み合わなかったのか。ようやく一つの答えに辿り着くことができた。神威も同時に何か閃いたらしく、子供っぽく手をぽんと叩いてみせる。

 あの時神威は彼らの会話に楽しそうに耳を傾けていた。まるでおいしそうな食べ物か、強い生き物の話をしている時のように。あれがこの子供に関わることだとすれば、考えられる可能性は二つしかない。即ちこの子供を食べるか、強くして手合わせするか。

「……まさか、食う気じゃねえよな」
「そうだね、さすがの俺もそこまで意地汚くはない」

 それはさすがにちょっと、とドン引きする神威。まさか本気で一部の部下に心配されていたことはこの際だから黙っておこう。無駄に同族の血を流す必要はない。

「で、いい加減説明してもらえませんかね。団長様、一体これはどういうことなのでしょう」

 このピンク色の生き物は結局何なのか。最早ただの人型の生き物だとは思っていない。そうなると残る可能性は限りなく一つに近づくわけだが、それはそれで詳細を確認しておかないと後でとんでもないことになってからでは遅い。今まで過去に何度もコミュニケーション不足で悲しい事件が起こっているのだ。たとえばなりゆきで上司を抱く羽目になったりとか。

「こいつはね、生き物の血を餌にする希少なえいりあんだよ」

 神威はまだ床に付したままの小さな生き物を持ち上げて起き上がらせた。神威の姿をした子供は哀れなくらい涙で顔をべしゃべしゃにしている。

「話によると摂取した血液から情報を吸収し、己を強化しながら成長していくんだって。とはいえまさか見た目までこうも激変するとは思っていなかったんだけど、成長が早そうで助かったよ」

 べそべそとしゃくり上げて泣き止まない、相似形をした生き物を抱きかかえて神威がケラケラと笑う様はなんだかひどく奇妙である。むしろシュールだ。今晩夢に見そうで怖い。

「そして更に己を高めるため、はじめの餌から得た情報を利用して新たな餌を得ようとする」

 神威は子供を抱えたまま、にたりと嫌な笑みをした。それはたとえば子供が自分の仕掛けた罠でまんまと大人を嵌めた時に見せるような無邪気で邪悪な、そんなもの。

「つまりこいつの第二の獲物はお前だったんだよ、阿伏兎」
「……マジでか」

 それは非常にゾッとしない話だった。神威の意地の悪い笑みにも納得がいく。なぜならもしも血液を吸われていたら、我が血と彼の血が交ざりあうということだ。それでこの子供がどう変わるのか、考えただけで鳥肌が立った。

「止めない方がよかった?」
「…………馬鹿言え」
「だよねえ」

 心底からげんなりして見せる阿伏兎に神威はケラケラと笑った。その眼が実は笑っていないような気がするのは敢えて気付かないふりをする。

「それで、結局そのお子様はどうするんだ?」

 会話の矛先を変えたくて、阿伏兎はずっと気になっていたことを尋ねた。神威にも阿伏兎の意図は見抜かれていたのだろう、神威はほんのわずかだけ間をおいてふっと子供に目線を下ろした。

「置いていくよ。まだ弱いから壊さない」

 その瞳はなぜだかとても潔い色をしていた。神威は阿伏兎の方を向いて抱いていた子供の体の向きを変え、床に立たせる。

「お別れだよ。もう俺がいなくても生きていけるだろ?」

 自分も膝を折って子供と同じ高さで、神威は奇妙なまでに優しい声を出した。子供は泣きじゃくりながらも自分が話しかけられていることを理解しているのか神威を真っ直ぐに見上げている。

「おわかれ?」
「そうだよ。俺は大体そらにいるから、この星でうんと強くなったらいつか会いにおいで。俺はもうこの星には来ないと思うから」
「もうこない?」
「うん、もう戻らない」

 その時子供がどんな表情をしていたのかは阿伏兎に背を向けていたのでわからない。しかし何かをせがむように小さな両手を目一杯伸ばす子供を見下ろす神威はどこか遠い別の景色を見つめるような、そんな滅多に見せない顔で好きにさせていた。

「にーちゃ……」
「さよならだよ」

 触れる手を拒絶しないかわりに抱き締めることもしないのは、乱暴に突き放すよりも残酷なことなのかもしれない。神威は結局最後まで自分からは一度も触れることなく、子供を船から下ろしてしまった。手も振らず振り返りもせずただ一度だけ、唇が誰かの名を刻んだような気もしたがすぐ風にさらわれてしまって誰にも届かなかった。

 だから神威が一体誰にさよならをしたのかは、阿伏兎の知るところではない。







 団長の気紛れな出航合図に船内は俄かに慌しくなった。もっとも第七師団ではよくある話なので忙しくはあるものの混乱はない。唯一混乱があるとすれば食料庫くらいのものである。あそこの係は常に死と隣り合わせの節があるのでいつだって戦争だ。

「さあ出航だ。あれは見つかった?」

 宇宙へ飛び立ち、何も持っていないのが落ち着かないのか手遊びをしながら神威が問うたのは阿伏兎ではなく別の団員だった。

「はい、団長の言ったとおりでした!」
「そう。射撃準備は」
「整っています。射程距離圏内到達まであと約5分です」
「オッケー」

 一体何がオッケーなのか、阿伏兎にはさっぱり心当たりがない。しかも射撃とかなんとか、不穏な言葉が飛びかっているではないか。どうやら自分に知らされていないことがまだあるようで、阿伏兎は憮然として尋ねた。

「……何の話だよ団長?」
「仕事の仕上げだよ」

 神威は阿伏兎を見据えると、何やら楽しそうに笑みをした。そして他の団員たちに後は任せたよと檄を飛ばすと官制室からふらりと出て行く。共に来いということだろうと判断し、阿伏兎もその後をついて行った。

「おかしいと思わなかった? あの星の住人は貨幣文化を持たないのにどうやってうちから武器を買ったのか。しかも春雨は衝突する両者に同じ物を売り付けているんだよ?」
「……あ?」

 改めて言われてみれば、確かにそれは妙かもしれない。彼らが貨幣文化を持たないとしたら春雨は一体何と引き換えに武器を売ったのか。旧式とはいえそれなりに値は張るものだ。ただ同然でばらまくような真似をしたとすれば、そこには何かしらの意図があるはずである。しかも神威の言うとおり敵対する両方に与えることのメリットがわからない。もしも内政を掌握したいのなら片方だけに肩入れした方が早いし、星を更地に変えたいならそんなまどろっこしい真似をせずとも第七師団を正しく有効に活用すればいい話なのだ。それをわざわざ片方に武器の使い方を教えるだけとは奇妙なことである。

「なんだこれ……どういうことだ?」
「と思って俺も考えたんだ」

 神威は歩みを止めないまま話を続けた。その行き先はまだわからないが、少なくとも食堂ではないらしい。

「春雨は今回俺たちに武器の使い方だけを教えて戦力の均衡を保てと言った。俺もはじめは商売のためかと思ったけど、いざ来てみたらこの有様だろ? だからちょっと彼らに話を聞いてみたんだけどね、これがどうにもおかしいんだ。戦う理由が曖昧っていうのかな」

 神威の聞いたところによると、彼らの争いの原因は信仰の違いによるものらしい。
 昔からこの星には二人の神がいて、時々衝突することがあったそうだ。しかしそれがここ数年ほど奇妙なことになってきた。一体誰が言い出したのか月に数度、決まった日に同じ場所で戦争をするようになったのだ。当時は彼らを先導する者がいたらしいのだがいつの間にか消えてしまい、今では彼らは理由もわからぬまま神の名の下に殺し合いを演じ続けている。

「俺の調べによると大体こんな感じだよ。おそらくもう一方の勢力も似たようなものだろうね」
「その、先導していた人間ってのは外部の?」
「いや、そうでもなかったらしい。なんでもある日突然お告げを夢に見たとか騒ぎだしたらしいけど」
「……なるほど、金か薬で操られ用が済んだら消されたか」
「だろうね」

 頷いて神威は左右に別れた通路を少し折れたところで足を止めた。ちょうどそこは宇宙船の端に位置するところで、外の景色が見えるよう強化ガラスがはめ込まれている。船は黒い海を泳ぎ、阿伏兎に憂鬱ばかりをもたらした星は既に緑と茶色の斑をした丸い宝石だ。

「あの星は悪趣味な連中の玩具箱だったんだ」

 戦力の均衡を必要としたならばおそらく賭博の対象にされていたのだろう。意味のない殺し合いを演じさせ、自分たちは一切痛みを感じることなく巨額の利を得る。武器を与えたのだって過激な方が金になるからに違いない。まさかそれを鈍器のように振り回すとは思わず慌てて路線修正を図るため、第七師団が呼ばれたのだ。

「全く、大した雑用を押し付けられたもんだ」
「やっとわかった?」
「ああ。つまりあんたが撃ち落としたいのは戦争を見守る巨大な眼か」
「そういうこと。俺たちを雑用に使った報復はきっちりさせてもらわないとね」

 神威は団長の顔をして唇に笑みを乗せた。だらだら過ごしていたように見えて陰でちゃんといろいろ考えていたあたり、こういうところはしっかりしたものだと思う。阿伏兎を含め他の団員たちは皆、春雨からの嫌がらせで退屈な仕事を押し付けられたものだとしか思っていなかったのだから。

「でもいいのか? 春雨の賭博場を台無しになんてしたら、また何言われるかわかんねえぞ」
「大丈夫だよ。俺たちはただ春雨の縄張りを監視する怪しい眼を潰しただけだ。そうだろ? それに元々の仕事は既に完了している」
「武器の使い方ってやつか?」
「いいや、俺たちの任務は戦いを終わらせず『武器を売り続けて儲けられる環境』を作ることさ。新しい敵が現れれば彼らは拙い力を合わせ、新しい戦いを始めるだろう?」

 強化ガラスには阿伏兎のよく知っている、悪戯な笑みをたたえる神威が映っている。しかし団員たちが暇潰しにピカピカに磨き上げたガラスごしに偽物の宝石をなぞる指は阿伏兎の知らない優しさに似た何かを宿しているように見えるのだ。

 あの子供を春雨の手から守るためではないのか。ついそう思わずにはいられなかった。あの子供へ注ぐ神威の眼差しも抱き上げる手も、あれらは確かに阿伏兎の知らない神威のものだったから。あれはきっと昨日の夜に出会ってしまった奇跡の生き物の片鱗なのだ。

「これは本当に、雑用への報復なんだよな?」

 まだ彼の中であの奇跡の生き物がか弱い呼吸をしているのだとしたら、きっと小さな躊躇いが生まれるだろうと思った。しかし阿伏兎の予想に反して、神威は少しの迷いもなく星を見つめたまま答えたのだ。歌うように滑らかに。まるではじめから未来を知っていたみたいに。

「そうだよ。これは報復だ」

 阿伏兎を振り返る。星をなぞっていた手が阿伏兎の首にとまる。阿伏兎を見上げて笑う。

「お前はそう言ってほしいんだろ?」

 深海色が瞬きをするほどのわずかの時、不思議な色を宿した。しかしその感情が何であったのかは一瞬のことだったのでわからない。言葉を忘れてしまった阿伏兎を仕様のないものを見るような苦笑を孕んだ眼差しで見上げ、おもむろに口を合わせてきた。これでこの話はお仕舞いと言うかのように。

「お前の機嫌を損ねるのはつまらないとわかったよ。当分はいい子にしていようかな」

 そう、冗談めかした言葉を口にする頃にはもういつもの、阿伏兎のよく知る笑い方をしていて、あの奇跡の生き物の面影は跡形もなく消え失せていた。

 やはりこの生き物は歪んでいるのだ。阿伏兎は心の内で思った。偽物も本物もごちゃ混ぜになって、まるでどちらも虚構のようだ。もしかしたらこの生き物の中身は空っぽの空洞なのかもしれない。理想の夜兎の形をした幻なのだ。
 そんな馬鹿馬鹿しいことを一瞬でも考えてしまったらもうやるせなくて、この生き物がシャボン玉のように消えてしまうのではないかと奇妙な不安に駆られて、気が付いたら自分から手を伸ばしていた。
 手を引いて肌を重ねて、不意のことにあわく開いた唇を乱暴に塞ぐ。こんなやり方をするのはきっと初めてだった。阿伏兎の方から触ることだってそうだ。しかし神威は何も不平を漏らすことなく、繋いだ手を骨を砕かないくらいの優しい力で握り返してくるだけだった。

 やがて船が低い音をさせて振動し、二人はどちらともなく離れ窓の外を見た。あの禍の星を見守る眼を潰すための砲撃が開始されたのだ。これであの星はしばらくの間、春雨の悪意から守られることになるだろう。

「ねえ阿伏兎、もしもちびがお前の血を手に入れていたら、どんな風になったと思う?」

 濡れた唇を人差し指で拭いながら神威は振り返って笑う。

「興味あるのか」
「そりゃあね。阿伏兎は全然みたいだけど」
「……じゃあどうして阻止したんだ?」

 尋ねると神威はくすりと笑い、白い手で阿伏兎の頬に触れた。まるでお気に入りを愛でるようなやり方で、包み込んで指先がなぞるように動く。

「だってお前の血も精子の一滴も、全て俺のものだろう?」

 だからだよ。今度は子供のように無邪気に、春の風のように温もりだけを残してふわりと離れていく。ふらりふらりと歩きだしながら、振り返ることなく阿伏兎を呼んだ。

「お腹空いたからご飯食べに行こう」

 もう窓の外の星には目もくれない。阿伏兎が黙ってついてきていることを信じて一人で勝手に歩いて行く。
 できることならもうしばらく、そのまま振り返らずにいてほしい。少し遅れて追いかけながら切に願う。もしも今この顔を見られたなら、きっとそのまま舌を噛んで死にたくなるだろうから。だからどうかそのままで。いとしいいとしい団長様。




補足。1で神威がちびにつけた名前の由来は「えいりあん」でした。
2からかなり時間が開いてしまい申し訳ございませんでした……!



2012/11/29