名前を呼んで

 総悟が近藤の家に世話になるようになって半年の月日が流れた。

 土方がいつも通り土産を持って近藤宅を訪れると珍しく留守だった。少し考えて、そういえば今日は医者に行くと言っていたのを思い出す。
 空を見上げればもう夕焼けに赤く染まり始めている。この調子ならすぐ帰ってくるだろうと思って合鍵で勝手に上がりこみ、適当に寛いでいることにした。


 予想通り間もなくして二人は帰ってきたが、土方が玄関に出迎えに行くとなんだかいつもと様子が違った。
 近藤のほうはやたら気落ちした浮かない顔で、総悟のほうは反対にとてもご機嫌で、しかもなぜか腕に子猫を抱いている。明るい灰茶で、もちろんこれはおもちゃではなくどこからどう見ても生物だ。

「どうしたんだその猫」

 目を丸くして尋ねると総悟は玄関のほうを指した。近藤がそれにすぐそこで拾ったのだと補足してくれる。

「ふーん。で、飼うのか?」

 総悟が頷く。余計なお世話かもしれないがこの家の家計は大丈夫なのかと近藤を見上げたら、この世の終わりみたいな顔と目が合ってしまって失敗したような気がした。そんなにやばいなら断ればいいだろうに。親馬鹿で破産したら元も子もない。

「トシ、ちょっと話があるんだ。俺の部屋にいいか……」
「い、いいけど」

 様子からしてあまり聞いて楽しそうな話ではなさそうである。しかし断るいい理由も思いつかなかったし聞いてやらない限りずっとこの調子だと思うとそれはそれで嫌なので、仕方なく付き合ってやることにした。
 歩き出した近藤の後を追おうとして、ふと思い出して振り返る。こちらを見上げる総悟と目があった。

「猫に牛乳は駄目だからやるんじゃねぇぞ。あとで一緒に育て方調べてやっから大人しくそこで待ってろ」

 馬鹿をやらかす前に念のため釘をさしておいたのだが、やはり本人はそのつもりだったのか少しがっかりしたような顔をした。それでも納得したのか猫と一緒にお気に入りの縁側に座って、土方と近藤を見送っていた。
 見送りの言葉は何もない。相変わらずの無言のままだ。半年前から今日までずっと、総悟はまだ言葉を話せないままだった。



「買う金がないならちゃんとないって言ってやればいいじゃねぇか」

 近藤が話し出すより先に土方は言ってやった。
 総悟が何かをねだるのは珍しいので叶えてやりたい気持ちはわかるが、それでもどうしようもない理由が存在するなら仕方ないではないか。こんなことでいちいち泣きつかれるこちらの身にもなってもらいたい。

 しかしどうやら土方の読み違いだったらしく、近藤の気落ちの理由は別にあるらしかった。

「猫は関係ないんだ。とりあえずこれを見てくれないか」

 言って近藤が懐から取り出したのは数枚の紙だった。受け取って開いてみると総悟のミミズがのたくったような解読困難な汚い字がでかでかと書いてある。どの紙にもその隅に丁寧な文字が書いてあり、後でわかりやすく質問のほうを書き足したものなのだろう、これはどうやら医者と総悟のやり取りらしいことがわかった。

 目を通すと紙にはこんなことが書いてあった。

『毎日は楽しい?』
『たのしーです』
『近藤さんと土方さんは好き?』
『うん』
『話せるようにならないのはどうしてだと思う?』
『しんないです』
『じゃあ、話せるようになりたい?』
『どっちでもいーです』
『それはどうして?』
『こまってないからです』

 何枚も紙を使った割には会話の内容はこれだけだった。総悟の字が大きすぎるのだ。

「あの馬鹿、やる気ねぇのかよオイ」

 呆れて溜息も出てこない。
 実は薄々そんな気はしていたのだが、どうやら本当にやる気がなかったらしい。
 体の傷はすっかり癒え、半年も経ったのだから心の傷もそれなりに少しくらいは癒えただろう。それでも総悟はまだ話せないままだ。

「医者の話だと、俺たちが甘やかすから話せないままでもいいって思っちまってるんだそうだ」

 土方はようやく近藤が気落ちしていた理由がわかった。本当に猫は関係なかったらしい。

「つったって今更厳しくってのも変だろ」

 というより近藤ができないような気がする。そして自分もおそらくは。
 それに厳しくしたところで、それがきっかけになって話しだすともあまり思えなかった。何よりも問題は総悟のやる気のなさにあるのだ。やる気がないというよりはもう話そうとする行為そのものを面倒くさがっているようにさえ見える。

「しかしトシ、総悟は俺たちのせいで話せないんだぞ。あいつの将来の芽を俺たちが摘み取っているようなものじゃないか」
「……まあ、見方によっちゃそういう風にもなるか」

 土方は総悟が離せないことに違和感を感じたことはなかった。たぶん総悟のほうも同じ気持ちなのではないかと思う。
 半年間付き合っていてわかったことだが、どうも総悟は今あるもので満足してしまう性質の持ち主らしい。だから基本的に何も望まないし、そのかわり何も捨てもしない。常に現状を維持しようと努めるのだ。
 もしかしたらこれは総悟がそれだけ今ここを大切に思っているということの現われなのかもしれないが、それが総悟の話すことへの渇望を妨げているということでもあるのだ。

「トシ、俺はどうしたらいいんだろう」
「別に今のままでいいんじゃねぇの。あいつだって将来不便さを感じるようになったら少しはやる気見せるだろ」

 あいつはとことん楽な方向に進みそうな気もするとは敢えて言わず、土方は一応近藤を励ましておいた。
 今のままでしかいられないのなら自分たちは今のままでいるしかないのだ。変わらなければならないのは他ならぬ総悟自身なのだから。






 戻ってみると総悟は相変わらず変なところだけ律儀に言われた通り縁側で待っていた。
 土方がやって来ると立ち上がって、うれしそうに猫を抱いたまま走り寄って来る。それから土方の後ろを覗き込んで小さく首を傾げた。土方の服の裾を引っ張って、土方が今来たほうを指し示す。

「近藤さんは部屋でちょっと一人でごろごろしたいってさ」

 総悟は心配そうに土方を見上げ、また同じ方向を指差した。
 たぶん総悟も医者の帰りから近藤がずっと元気がないことに気づいて気にしていたのだろう。もっとも気落ちの理由までは察しが着いていないだろうが。

「心配ねぇよ。それよりほら、猫用ミルク買いに行くぞ。飼い方も店員に聞きゃわかるだろ」

 総悟はまだ近藤のことを気にしているようだったが、猫のことを思い出してパッと顔を輝かせ、出かける支度をするため部屋に駆けて行った。
 その背中を見送って、土方はさっきの近藤とのやり取りを思い出していた。

 総悟の言いたいことは仕草や表情でなんとなくわかるし、表現のボキャブラリーは相変わらず少ないが最近は汚いながらも平仮名が書けるようになって筆談も可能になった。話せなくても大抵のことは意思疎通できる。だから総悟が話せなくて困ったことはなかった。

「たしかに俺らのせいかもな」

 一人になった縁側で土方はひとりごちた。



 店員に大まかな飼育方法を教わって猫用ミルクやその他必要な備品を買って帰ってきた。近藤はまだ姿を現さないのでどうやら立ち直れてはいないらしい。

 いつもの縁側で総悟の腕に抱かれて子猫はおいしそうに哺乳瓶に吸い付いていた。やっている総悟のほうも楽しそうだ。

「なあ、総悟」

 その横顔に土方が声をかけると総悟は顔を上げ、返事のかわりに小さく首を傾げてみせた。話を促すときの合図だ。

「お前さ、話したいとか思わねぇの」

 尋ねられて一瞬きょとんとして、それから総悟は困ったような顔をした。どう答えていいものか悩んでいるらしい。

「どっちでもいいってか」

 頷く。
 即答しなかったあたり、話せなければ話せないで不自由さは感じていないからこれといって強く望んではいないといったところか。どちらにせよやる気がないのは確かなようだ。

「それって困んねぇ?」

 思ったとおり総悟はふるふると首を振った。それからどうして、と唇だけを動かして問いかけてくる。
 たぶん今日は医者だけでなく近藤にも同じことを聞かれたのだろう。総悟からすればどうしてみんな同じことばかり聞いてくるのかと不思議なのかもしれない。
 半年ほど一緒にいてわかったことだが頭は空のようなので、今日の医者でのやり取りが発端になっていることまではわかっていないのだと思う。

「別にお前がいいならそれでいいけど」

 これは総悟の問題なのだ。話せと強要したところで話せるようになるものではないだろうし、そんなことをしたいわけでもない。

「ただ俺も近藤さんも、お前の声が聞けるの楽しみにしてたんだぜ?」

 それはもう過去形で。
 本人のその意思がないのなら話せるようになどはならない。総悟はきっとこのまま永遠に話せないことの不自由さを感じることはないだろうし、それはある意味では幸福なことなのかもしれない。

 別に総悟がそれでいいならもうこのままでもいいんじゃないかと、土方は思い始めていた。






06/04/02