籠鳥 〜独白〜


 この世界に楽園なんてないのだと思っていた――――


 母親が病気で死んで、残されたのは呑んだくれの父親が一人、姉が二人、沖田総悟が一人。
 歯止めとなっていたはずの母親がいなくなって父親の暴力は三人の子供に向かった。

 総悟は数が数えられない。貧乏で家にはカレンダーもない。だからどれだけの日数をそうして過ごしたのかはわからない。
 とても長い時間だったのかもしれないし、あっという間のわずかな時間だったのかもしれない。

 やがて、二人の姉はいなくなった。
 父親の暴力に耐え切れず逃げ出したのかもしれないし、売られていったのかもしれない。聞けばどうせ殴られるから、父親には何も聞かなかった。

 残されたのは呑んだくれの父が一人、沖田総悟が一人。二人きり。

 子供が一人になったので、父親の暴力は全て総悟一人に向かった。
 総悟が父親と接することで得たのは痣と痛みと、泣いたり抗ったりすればもっとひどい目に合わされるという知識だけだ。そしてそれだけで十分だった。
 総悟は父親に見つからないよう襖や戸棚の中に隠れ、毎日のように父が自分の存在を思い出して探しに来ないことを祈った。食事など誰も用意してくれないし元手だってなかったので、父親が寝ている隙に家を抜け出し、ゴミ捨て場を漁ってどうにか食いつないだ。ぎりぎりのところで生きていた。

 総悟は数が数えられない。貧乏で家にはカレンダーもない。だからどれだけの日数をそうして過ごしたのかはわからない。
 しかし総悟にはそれがとても長い間だったように感じた。

 父親と二人きり。毎日鬼が気づかないよう祈るだけの、息を殺した鬼ごっこ。見つかれば抵抗もせず大人しく殴られて、いつしかどんなに痛くても泣かない術を身につけた。
 そうやってずっと口を開かない生活を続けていて、いつの間にかそれが当然になってしまった。なので自分が話せないことに気づいたのはずっと後の話になる。

 やがて総悟は父親に引きずり出され、はした金と引き換えに少年宿に売り飛ばされた。
 生きることに精一杯で手入れなど全くされていなかった、伸び放題の髪はきれいに結い上げられて高そうな可愛い女の子の着物を着せられて、売られてきたその日の夜に見知らぬ男に体を強要された。

 自分が話し方をすっかり思い出せないことに気がついたのは、その最中のことだった。
 父親からも受けたことのない痛みに叫びを上げそうになって、しかし喉から漏れたのは掠れた吐息だけだった。どうすれば声を出せるのか思い出せない。ただ初めて知る痛みに、泣かない術を身につけたはずの瞳からぽろぽろと涙ばかりが零れ、頬に濡れた筋を作った。

 総悟は数が数えられない。貧乏で家にはカレンダーもない。宿にだってあるわけがない。だからどれだけの日数をそうして過ごしていたのかはわからない。
 ただそれは今までのどの時間よりもずっと長く、果てのない地獄のように思われた。






 冴え冴えとした空を、白い雲が緩やかに風に流されていく。
 見上げる総悟の短くなった茶色い髪も、流されはしないものの風にそよそよとなびいた。

 近藤のところに身を寄せるようになって少しの時間が経つ。相変わらず数は数えられないし、カレンダーはあったけれどそれがどういう意味を持つ代物なのか総悟は知らなかったので、やはりどれだけの時間が経ったのかはわからなかった。

 近藤は総悟に普通の男の子が着る袴を買ってくれた。
 土方はもう結う必要はないからと、長かった髪を切ってくれた。

 二人は父親のように殴ったりしないし、店に来る男たちのように痛いこともしない。
 初対面のときこそ土方には殴られたが、あれは先に手を出した総悟がきっと悪いのだ。土方はあの後何度も謝っていたし、それから一度だって総悟を殴ったりしない。

 ここではお腹いっぱい食べたって怒られないし、総悟のための部屋と布団だってある。風呂もあるし庭もある。いい人が二人もいる。


 ここはなんていいところなのだろう。
 この世界にこんな楽園みたいな場所があるなんて少しも知らなかった。
 こんなきれいな庭も、青い空も、いい人も、手の届かない夢の世界のものだとずっと思っていた。
 この幸せはきっと長くは続かないだろうけれど、今日がとても幸せだから明日また地獄に連れ戻されようと構わない。本当に心の底からそう思った。


「総悟」


 不意に名前を呼ばれて振り向くと、土方の姿があった。
 ここは近藤の家らしいが、土方は昼間によく顔を出す。夜は泊まって行くこともあるがどこかへいそいそと帰っていくことのほうが多かった。土方にもたぶん自分の家があるのだろう。

「何してたんだ?」

 空を見ていたと言いたくて頭上の空を指差した。土方もつられて空の彼方を見上げ、ああ、と納得の声を上げる。

「ここ数日曇ってたからな。久々に晴れたのか」

 言って土方はふわあ、と大きな欠伸をした。まだ太陽は高くなくて、どちらかというととても朝早い時間帯だ。土方はこういう時間に来ることが多く、そういう日は決まっていつも眠そうだった。

「徹夜明けで眠ぃんだよ」

 そういう仕草を見咎めて土方の顔を指差すと、土方は決まってこう答えるのだった。忙しい人なのかもしれない。

「で、近藤さんは?」

 その問いに首を振って今度は近藤の部屋を指差す。障子はきっちりと閉ざされていて、部屋の主がまだ眠りから覚めていないことを教えていた。

「そっか。総悟は朝が早いな。ところで草履どうしたよ。外出るときは履けって教えたろうが」

 言われて総悟は首を傾げた。ここは近藤の家で、外ではない。だから草履を履かずに庭に出た。自分は何か間違っただろうか。
 そんな総悟の疑問に気づいたのかどうかは知らないが、土方はしゃがんで総悟と視線を合わせ、含めるように言い聞かせた。少し面倒くさそうな、呆れたような顔をして。

「いいか。廊下や畳と違ってこういうところは地面がむき出しで、小石とか木の枝とかいろいろ落ちてて踏んだら痛いこともあるだろ。だからこういうところに出るときはきちんと草履を履くんだよ。そっちのほうが足が汚れなくて済むしな」

 片足を持ち上げて、その足の裏を見てみる。たしかに土方の言う通り足は真っ黒だった。手で触ってみると土が指にもべっとりとつく。

「わかったか?」

 納得して、総悟はこくんと頷いた。それからここに降りてきた縁側のほうを見て、またもう一度足を見る。どうやって戻ったらいいだろうか。足が汚れるのが駄目なら這って行けばいいだろうか。しかしそうしたら今度はせっかく近藤がくれた服が汚れてしまう。

 足りない頭で思案しているところに、しゃがんだまま眠そうに目を擦る土方と目が合った。

「何」

 片手で服の裾を引っ張って、もう片方の手でしきりに縁側を指差す。連れてって、と言いたいのだ。
 総悟の手を交互に見比べて、それからせがむ総悟の顔を見て、土方はやれやれと溜息をついた。

「ったく、しょうがねぇな」

 土方がゆっくりとした動作で立ち上がる。総悟は背伸びをしながら土方に向かって両手を差し出した。
 いつものように総悟のほうに手を差し出しかけて、それが一瞬ぴたりと止まる。

「……抱っこであってんだよな?」

 総悟の意思はきちんと伝わっているようなのに、総悟に触るときだけは必ず土方は確認する。どうしてなのかはわからないが、触ろうとして手が途中で止まるのも土方の癖らしかった。

 総悟が頷くと土方は止まっていた手を動かして、総悟の体を軽々と抱き上げた。空が少しだけ近くなって、土方が近くなって、手のやり場に困ってとりあえず邪魔にならないように自分の肩を抱きこむように折り畳んだ。

 初めてあったその日、土方は総悟が触ろうとしたのを強く拒絶した。総悟としてはそうするように教え込まれていたからそれに倣っただけなのだが、何か間違いを犯してしまったらしい。
 それから総悟は土方はそうされるのが嫌なのだと解釈して、土方には抱きつかないよう心がけるようにしていた。



 それからしばらく近藤が起きてくるまで、土方と縁側でだらだらとして過ごした。といっても近藤はすぐに起きてきたのでそれほど長く待っていたわけでもない。

「よう、早いな二人とも」
「いや俺は寝てないだけ」

 駆け寄った総悟を近藤が抱き上げる。土方のときとは違って、今度はきちんと首の後ろに手を回した。それからふと思い出して、片手を離して空を指差す。

「ん? そうか高い高いだな。よし、いくぞー!」

 天気がいいから教えたいだけだったのに近藤はすっかり勘違いして、総悟を高々と持ち上げて走り回った。口の聞けない総悟の意思が伝わることの方が珍しいので別に気にはしない。何も近藤が鈍いわけではないのだ。宿にいた時だってほとんど総悟の意思が相手に通じたことはなかった。もっとも稀に通じたとしても基本的に聞き入れてもらえないのでどうでもいいのだが。

「近藤さん、ちょっと話あんだけど。あとそれは天井のないとこでやれ」

 総悟を天井に向けて放り投げようとしていたところを、呆れた面持ちで土方が止めに入った。そのままの姿勢で近藤が向き直る。

「おう、朝食の前の方がいいか?」
「できれば」
「そうか。わかった」

 土方の言葉に頷いて、近藤はそっと総悟を降ろした。後で一緒に遊ぼうなと言って頭を撫でてくれる。

「総悟、腹減ったなら戸棚に土産に持ってきた豆大福があるから食ってろ。近藤さんと日向ぼっこは悪いが少し待ってくれや」

 総悟は頷いて、名残惜しげに手を振る近藤に手を振り返して背を向けた。豆大福へ向けて歩き出しながらこれまでにも何度か思ったことを考える。
 土方は変だ。気味が悪い。だって総悟の言いたいことを全て正確に汲み取ってしまうのだから。たぶんあの人は総悟がそう思っていることすらも理解しているのではないだろうか。本当に変な人。口が聞けるようになったら是非ともそう言ってやりたい。



 豆大福を入手して、総悟は近藤たちの話が終わるまで部屋の外で待っていようと考えた。近藤の部屋に行ってみると障子は閉め切られていたが、二人の話し声が聞こえる。総悟は障子の脇に腰を下ろして豆大福を頬張りながら、何気なく二人の話に耳を傾けた。

「で、昔の女とかいろいろ当たってみたんだが、どうにもきな臭いのが一軒あるんだ。たぶん総悟はあそこにいたんだと思う」

 土方の声だ。自分の名前が出てきて、総悟は豆大福を頬張る手を止める。立ち去ったほうがいいかと少し迷ったが、結局その場に居残った。
 少し間を置いて、話は続けられた。

「これは客が酔ったときに口を滑らしたのを聞いただけらしいんでどこまで信憑性があるかはわからねぇが、そいつが言うにはこの辺に会員制の少年宿があるらしい。どうすれば会員になれるかまではわかんねェが、女の話だと金次第ってわけでもなさそうだな。
 まあ、とにかくこれだけなら怪しい店なんていくらでもあるし大しておかしくもねぇ。問題はその客が攘夷派連中の一人だったってことだ。その女もこいつが捕まったのを新聞で見て知ったらしい」

 ジョウイ。その言葉には聞き覚えがある。店に来た客たちの何人かが度々口にしていた単語だ。他にもテロとかアンサツとかいろいろ難しい言葉が出てきたのを覚えている。

「ここから先は俺の推測に過ぎねぇが、たぶんその少年宿は攘夷派連中の根城のひとつなんじゃねぇかと思う。更に出会ったときの総悟の様子からしてただの少年宿じゃねぇな。たぶん、ガキに色使って忍び紛いのことをさせてる」

 そろそろ難しい言葉が多くて話がわからなくなってきた。色、と聞いて青い空と白い雲と緑の木々を見上げてみる。あそこにはこのうちのどの色もなかった。赤い血と肌色しか知らない。あとは全部闇色だった。

「場所も大体掴んでる。たぶんこれで間違いねぇだろ。どうする近藤さん。まだ調べるか? これ以上調べたって俺らは幕府の狗じゃねぇんだし、勝手に殴りこんで潰すわけにもいかねぇんだぞ」

 土方の言葉に、近藤が低い唸り声をあげた。それから長い沈黙が続き、総悟もぼんやりと近藤が何を言うのかと待つ。

「よし、飯を食おう」

 パンと手を叩く音と共に近藤は言った。総悟は声の出ない口を開きかけ、土方は答えを予想していたらしく溜息をついたのが音でわかった。

「近藤さんさぁ、会話の前後に脈絡がないっつーか、なんていうか俺の苦労はどうなるんだ」
「これだけ素性がわかれば十分だろう。総悟にはかわいそうだがほとぼりが冷めるまでしばらく家の中で過ごしてもらおう。そうすればじきに役人たちの目も逸れるはずだ」
「まあ、近藤さんがそれでいいなら文句はねぇけど」
「さーて、飯だー! 昨夜の残り物を温めるぞー!」

 その声を聞いて総悟は立ち上がり、足音を忍ばせて最初の縁側まで戻った。なんとなく盗み聞きしていたのがばれるのが恥ずかしかった。






 それから一日は滞りなく過ぎ、夜になった。土方は面倒くさそうに朝食に付き合ってからずっと部屋で寝ていて、近藤は出かけることもあったがそれ以外は総悟とずっと遊んでくれた。

 総悟は朝にいた縁側に同じように腰掛けて、猫の爪のような月を見ていた。
 ここに来て一番苦労したのが生活リズムを直すことだ。最初は昔どおり昼に寝て夜に起きる生活をしていたのだが、不健康なので二人に矯正させられた。
 それでもまだ来て日が浅く、昼より夜に目が冴えていることの方が多い。昼も夜もうとうとと浅い眠りを繰り返して、気がつけば一日が過ぎていることもある。

 総悟は眠ることに慣れていない。家にいたころは気を抜いて眠っている間に父親に見つけ出されるかもしれないという不安があって、深く眠らない癖がついた。売られてからは疲労できちんと眠ることも多くなったが、夢にうなされて起きることや客に叩き起こされることも多かった。眠りというよりは、気絶というほうが近かったのかもしれない。

 ここの夜は穏やかで、誰も総悟に痛いことをしないし自由にさせてくれる。本当に楽園のような場所だ。
 ここはあまりにも総悟に優しくて、幸せすぎて、なぜか逆にここに自分はいてはいけないのではないかという気がした。

 この場所は自分みたいな汚い人間にはもったいない。
 自分だけこんなところにいるのはきっと許されないのだ。あそこには総悟のような子供がたくさんいて、彼らは総悟が空を見上げている今この時にも痛い目に合わされているのだから。
 それに、総悟は一つだけあそこに忘れ物をしてきている。

 かえらなきゃ。

 昼間の話を盗み聞きしてから、総悟はずっと考えていた。
 二人に今まで何をしてきたのかを知られてしまった。もうここにはいられない。こんな汚れた子供、ここにはもったいない。ここを疎まれて追い出されたらもう立ち直れないような気がするから、その前にここを出よう。嫌われる前にいなくなってしまおう。

 考えて、居ても立っても居られなくなって総悟は立ち上がった。
 足音を忍ばせて廊下を走る。どこをどう歩けばあそこに戻れるのかわからないが、たぶん歩いていれば向こうが勝手に見つけてくれるだろう。この髪の色はそれだけよく目立つのだ。

「っ……」

 廊下の角を曲がろうとして、何かに大きなものにぶつかって総悟は尻餅をついた。声の代わりに喉から吐息が零れる。
 驚いて見上げた先には、土方が立っていた。

「何してんだよ」

 こっちの台詞だと思い、土方を指差した。こんな曖昧な表現では伝わりっこないと思っていたのに土方は総悟の意図を察したらしく、尻餅をついた総悟を助け起こすこともせずに不機嫌そうに言った。

「俺は朝飯食ってから夜までずっと寝てたんで寝れねぇんだよ」

 なるほど、と総悟は納得してしまう。そういえば土方は徹夜明けとか言って一日中寝ていた。この人こそ生活リズムを直すべきなのではないか。

「どこ行こうとしてたんだよ。近藤さんの部屋も厠もみんな反対方向だぜ?」

 言われて、うっと息を呑んだ。たぶんもう全て見抜いていて、こういう言い方をしているのだ。

「昼間の話、聞いてただろ」

 総悟は頷く。

「だから帰るのか?」

 また、頷く。

「ここにいろよ」

 なんで、と言いたいのに声が出ない。開きかけた口は呼吸以上の役割を果たしてくれない。

「誰もお前を追い出さねぇし、近藤さんにいたっては目に入れても痛くねぇくらいの可愛がりようだ。お前が居なくなったらさぞがっかりするだろうよ」

 それでも、自分なんかがここにいたら、きっと後でもっとがっかりさせてしまう。そんなところは見たくない。

「それでも帰りたいか?」

 嫌だ。帰りたくない。それでもここにもいられない。
 どこにもいけない思いのせいで、イエスもノーも答えられない。

「総悟、お前が選べ」

 突き放すような言葉。俯いていた顔を上げれば、真っ直ぐにこちらを見下ろす目と合った。

 こんな楽園みたいなところがこの世界にあるなんて知らなかった。楽園はずっときれいでいるために汚れた人間を拒むものだと信じていた。
 今日がとても幸せだから明日また地獄に連れ戻されようと構わない。本当にそう思っていた。
 それでもやはり、帰りたいわけではないのだ。


 ここに、いたい


 土方の服の裾を掴み、たどたどしく口で言葉の形を作る。まだどんなにがんばっても声の出し方は思い出せないけれど、かつてやっていたのを思い出して、その形を必死に真似た。

 土方は総悟に合わせて床にしゃがみ、総悟の薄茶色の髪を大きな手で掻き上げた。もう片方の手で総悟の目元を拭う。自分でも気づかないうちに泣いていたらしく、頬がべとべとになっていた。声を封じることはできても、涙だけはいつまでたっても総悟と共に在り続けている。

「ここにいろよ。いていいから」

 その声に、その仕草に、総悟は大きく頷いた。
 許されたことがとてもうれしくて、また涙が出そうになった。



 

05/12/26