声が聞こえる 3

 声が、聞こえる。
 とても悲痛な、聞いているこちらまで胸が締め付けられるような叫び。昼も夜もずっと叫び続けている。

 あんなにもはっきりと音を認識できるのに、目を閉じて意識を集中させてみても音を言葉として聞くことはできない。他の音は聞こえるのにその声だけが、まるで耳を布で塞がれているかのようにくぐもって聞こえないのだ。

 それでも沖田は知っていた。声の主が誰を呼んでいるのか。
 その人が誰であるかは知らなくとも、それが自分に残された記憶の残滓が欲している人と同じであることだけはわかっていた。

 なぜわかるのかはわからない。ただこの声の主に会えば、何かわかるような気がした。


 そして今、その声が近づいている。


「――行かなきゃ」



 沖田は徐に眠りから覚め、呟いた。隣で仕事をしていた土方が突然起き出した沖田を不審そうに振り返る。

「なんだお前。寝ぼけてんのか?」
「すいやせん土方さん。俺ちょっと出かけて来まさァ」
「はあ!? どこにだよ!」

 悪いが質問に答えている暇はない。沖田は無視して部屋を飛び出し一目散に駆け出した。後から土方が追ってくる気配がしたがそちらはすぐに止まる。

「う、あ、わぁっ、副長飛び出して来ないでくださいよぉ」
「っるせぇ、お前こそどうしてこうタイミング悪ィんだよ!」
「えェェ! なんで怒られてんすか俺!?」

 沖田は一瞬だけそちらを振り返り、すぐにまた走り出した。
 夕飯までに帰ればたぶん怒られない。ものすごく睨んでいたけど。鬼のような形相をしていたけど。

 こうして事態は動き出した。






 そういえば屯所の外に一人で出るのは初めてだった。外は危険だからといって土方が許してくれないのだ。
 しかしこうして通りを眺め渡してみると、一体どこがどう危険なのかわからない。沖田より小さな子供やか弱い娘たちが無邪気に歩いているその様子はとても危険とは程遠いように見える。

 ……だが、迷子の危険というのなら認めよう。

 外へ飛び出して早15分、既に現在位置と屯所の位置関係がよくわからなくなった自分の頭の悪さに沖田は少し泣きたくなった。でもいいや、帰りは110番通報して迎えに来てもらおう。情けないがそれが最良の策だ。

 気を取り直して、目的地に向け歩き出した。走るのは少し疲れたし、それに何より確かめたいことがあったから。

 なんか、どんどん離れて行ってないかこれ。

 沖田の耳に届く声はさっきよりもかなり遠ざかっていた。それに加えていつの間にか道は行きたい方向と関係のない方向へ伸びている。更に言えば行きたい方向は他所様の家が塞いでいる。
 開発ばかりが進んでいて、この町は土地勘のない馬鹿には冷たすぎる。記憶をなくしてみて沖田はそのことを痛感した。いっそ全部焼け野原になっちまえ。そんなことを捨て鉢になって思う。

 さあどうしよう。誰かに道を聞いてみようか。歩調を緩め、思案に暮れていると突然後ろから声をかけられた。

「もし、そこの子供」
「……俺のことですかィ?」

 振り返るといつの間にかすぐ後ろに男が立っていた。珍しいことに帯刀している。さては沖田が迷子であることに気がついて救いの手を差し伸べようとしてくれているのだろうか。なんて素敵なお侍さんなのだろう。

「真選組の沖田だな?」
「そうでさァ。実は今、迷子で」


「我らが仲間の仇、討たせてもらう」


 振り返った沖田の更に背後、つまり今まで歩いていた方からその声は降ってきた。

「え?」

 向き直ろうとする視界の隅で白い光が煌く。驚いて咄嗟にしゃがむと危ういところをひゅうと風が吹き抜けた。そこではじめて、光の正体が刀であることを知る。

「ちょっ、何……!?」

 問答無用、最初に話しかけてきたほうの男が叫んで刀を振り下ろしてきた。前と後ろの両方から襲われたにもかかわらずこれも何とか転がってかわし、姿勢を低くしたまま脇をすり抜ける。

 何がなんだかわからないが、とにかく逃げよう。即決して脱兎のごとく逃げ出した。

 走りながらいつ何時何が起こるかわからないからと、土方に無理やり持たされている刀のことを思い出した。もちろん今日だってこの通りちゃんと腰から提げているが、あくまでも提げているだけだ。だって刀の扱い方なんて知らない。覚えていない。それにそもそも沖田には彼らと戦う理由がないのだ。彼らの仇のことなんて知らないし、斬るのも斬られるのも嫌だ。そういう痛いことは嫌いだ。人を殺すのはいけないことだ。


 ってーか俺、警察じゃなかったっけ?


 走りながらのため声には出さず、胸のうちでだけ呟いた。

 土方曰く沖田は真選組の隊士で、真選組は警察の組織の一つだ。警察というのは交通違反を取り締まったり犯罪者を逮捕したりするのが仕事の正義の味方のはずで、仇だなんて殺人犯のような呼び方をされる謂れはないはずだ。 
 それなのにどうして自分は命を狙われているのだろう。とりあえずただ一つわかるのは、土方の言う「危険」が沖田限定だったということだ。



 逃げる、逃げる。いつ彼らに追いつかれるか、次の曲がり角で彼らの仲間が待ち伏せていないかと怯えながら。すれ違う全ての人が敵ではないかと疑いながら。
 真っ直ぐ走っていてはいけないと思い、角という角を無我夢中で曲がりどれくらい走っただろうか。ついにいくつ目かの角で沖田は人と衝突した。

「うぁっ」
「いって、てめぇ何しやがる!」

 かなりのスピードで走っていたため二人とも衝突して地面に倒れ込んだ。慌てて確認するが向かいに倒れているのはさっきの二人組ではない。そのかわりに後ろからそれらしきものが近づいているのを耳にして、しかしこうして一度止まってしまうともう立ち上がって走るだけの気力はなかった。

 やばい、俺死んだかも。

 荒い呼吸を繰り返しながら彼らの怒声と足音が近くなるのを聞き、背中を冷たい汗が滑り落ちた。記憶も取り戻せないまま、わけもわからず殺されてしまうのか。こんなことなら大人しく土方の言うことを聞いておけばよかったとひどく後悔した。

「あァァァァ! 俺のソフトクリーム! てめぇこの責任どう取るつもりだコノヤロー! ……ってあれ、沖田君? 何、え、どしたの? え、俺のソフトクリーム? いやいや弁償してくれれば別にそれでいいんだけどね俺は」

 名を呼ばれ、びくりとして沖田は顔を上げた。まじまじと、今ぶつかった相手の姿をよく見る。それは銀髪の、不思議な雰囲気の男だった。

「あ、あんた、俺の知り合いですかィ?」
「は? てめぇ何言って――」

 沖田の言葉に銀髪は不審げな眼差しで何か問いかけたが、ちょうどそのとき沖田を追ってきた二人組の声がすぐ側でして沖田は身を竦ませた。
 ぶるぶると震える沖田を銀髪は無言で見下ろしている。どうかこのまま見つかりませんように、ともすれば恐怖で叫びだしてしまいそうな唇をきゅっと噛み締め、沖田は一心に祈った。しかしそんな祈りも空しく足音は着実にこちらに向かっている。

 ふわり。不意に、固く閉じた目蓋の向こうに風を感じた。そう思った次の瞬間、抱きしめられた感触が降ってくる。
 はじめ、土方が助けに来てくれたのかと思った。しかし目を開けるとそれはあの銀髪の男で、沖田はまたわけがわからなくなる。

「顔上げんな。大人しくしてろ」
「え? でも」
「来るぞ」

 銀髪の意図をようやく理解して、低く囁かれた声に素直に従った。胸に深く顔を埋め、ぎゅっと腰にしがみつく。煙草の匂いがしないことに首を傾げ、そのことに首を傾げた自分に更に首を傾げた。煙草を吸わない人なんてたくさんいるのにどうしてそんなことに違和感を感じたのだろう。
 そうこうしているうちに、二人組はついに沖田に追いついた。

「おい、そこの者。今ここを茶髪の少年が通らなかったか」

 その時沖田は、この髪の色はとても目立つのだということを今更に思い出した。たとえ顔を隠していても髪を見られたらばれる。そう沖田は焦ったが銀髪もその辺りは百も承知のようで、自分の着物の裾でなんとも器用に隠してくれているらしかった。

「いやー知らないねぇ。つーかおたくら、邪魔しないでくれます? 見ての通りこっちはこれからいいとこなのよ」
「……邪魔したな。というか貴様、そういうことはもっと人目に付かんところでやったらどうだ」
「そうしたいのも山々なんだけどもうベッドまで待てなくてよぉ。まあすぐ終わらしてホテルにでも移動するんでここは見逃してくれや」
「あ、ああ。そうか……まあ、がんばれよ」

 銀髪の言うことを信じたのか、二人組の足音は最近の江戸の風紀はどうのと言いながらゆっくり遠ざかっていく。足音が完全に聞こえなくなるのを待ち、銀髪は沖田を離した。

「もう平気だろ」
「あの、ありがとうございやした」

 心からの礼をこめて、沖田は座ったまま深々と頭を下げた。それを見て銀髪はまた怪訝そうな顔をする。

「なんであんな奴らから逃げてんだよ。お前なら楽勝だろうが」
「? まさか。相手は大人で、二人もいたんですぜ」
「……ちょっと待て。お前沖田君だよな? 頭でも打ったか?」
「沖田です。頭は打ってやせん。そのかわり記憶喪失ですが」
「キオクソウシツゥゥゥ!?」

 目を丸くしてこちらを見下ろす銀髪を、沖田はじっと見詰め返した。
 爪先から頭の天辺までじっくり観察するが、やはり思い出せない。しかしこの男のまとう雰囲気は、沖田の探している「あの人」のそれによく似ている感じがした。

「あの、俺の名前、呼んでみてくだせェ」

 今も自分のことを助けてくれたし、もしかしたらこの人が自分の探し人ではないかと期待に胸を膨らませた。覚えているのは名前を呼ばれた感触だけだが、呼んでもらえればわかるはずだ。あの人の声を間違えるはずがない。そんな根拠のない確信が沖田の中にあるのだ。

「え、なんで? 呼んだらセクハラとか言って逮捕しない?」
「言わないんで頼みまさァ」
「……沖田君?」
「違う、下の名前で」
「そうごくん?」

 目を閉じて、五感全てを聴覚だけに集中させて声に聞き入る。記憶の声が持つ色やトーンと照らし合わせると一瞬重なりかけたがすぐに、ふっと離れていってしまった。

 この人も違う。似ているけれど別の人だ。

 やっと会えたかと思ったのに。落胆して沖田は溜息をついた。期待していただけにショックも大きい。

「まあ、なんだ。よくわかんねぇけど元気出せよ。爆弾とでも戯れてりゃあ記憶だってそのうち戻るさ。うん、俺はそうだった」

 しょんぼりと項垂れる沖田を見下ろし、少し困ったように笑って銀髪は手を伸ばしてきた。その手をぽかんと見上げていたら、無言で腕を引っ張られ立たされた。
 それにしてもなぜ爆弾限定なのだろう。沖田はおかしくて少しだけ表情をほころばせた。

「屯所まで送ってやろうか。代金は後払いでいいぜ」
「いえ、まだ行くとこがあるんで」

 ありがたい申し出だったがここで帰ってしまっては意味がないので首を振った。だってまだ、怖い思いをしただけで何も見つけられてはいない。

「でも一人じゃ危ねぇぞ。お前は特にああいう連中から恨まれてそうだしな」
「恨み?」

 それを聞いて思い出した。さっきの連中は一体なんだったのだろう。そしてなぜ自分は人から恨まれているのか。警察なのだしむしろ歓迎されていいような気がするのに。

「あいつら、俺のこと仲間の仇って言ってやした。あんたはこれがどういう意味かわかりますかィ?」

 どうも、自分にはまだ知らない事実が隠れている予感がした。土方はまだ全てを語ってくれてはいないような気がする。

「わかるぜ。知りたいか?」
「はい」
「たとえどんな事実でも?」
「……はい」

 銀髪は、沖田の返事を聞くとすっと目を細め、何か考えている素振りを見せた。考えごとをしているその表情は仕事をしている時の土方のものとどことなく似ている。そういえば土方は今頃どうしているのだろうか。帰ったらまず謝ろうと決めた。

「いいぜ。じゃあ教えてやるよ」

 その声で我に返ると同時に、ぐいと腕を引き寄せられた。バランスを失って銀髪の方に倒れこむ肩を軽く支えられ、耳元で唇が囁く。

「お前も人殺しだから」
「え――?」

 バランスを取り直そうとしていた足が己の役割を忘れ、糸の切れた人形のように崩れ落ちそうになる。そんな沖田を方腕一本で支える銀髪に、半ば混乱した状態で沖田は尋ねた。

「だって、俺、警察じゃ……」
「幕府が危険分子とみなした連中から江戸の町を守るのがお前たち、武装警察真選組だ」
「そのためなら、俺たちは、その……人殺しも?」
「かつて俺はお前の口からそう聞いた」

 何の温度もなく、平らかな声で銀髪は言った。
 公的な人殺しの集団、それが真選組。それでは自分は、いや土方や隊士のみんなも人を殺すというのか。

 ふと沖田は思い出した。最初に目覚めた光景を。人がゴミのように横たわり、赤くて黒い海をつくる部屋。あれ以来深く考えはしなかったが、やはりあれは沖田自身が作り出したものだったのではないのか。

 だって冷静になって考えてみれば、あの光景を見て何も感じなかった自分は異常だ。

「なんで……みんな、いい人なのに」

 自分だけでなく、自分に暖かい眼差しを注いでくれた人たちまでもが人殺しだなんて信じられなかった。信じたくなかった。

 悔しくて、唇を強く噛み締める。記憶のないことが初めて怖いと思った。不安に胸が押し潰されそうなのに誰に縋っていいのかすらわからない。記憶がないということはつまりそういうことなのだ。嘘が混じっていようが真実が伏せられていようが、自分には確かめる術がない。

「いい人だって理由さえあれば人を殺す。……ほら、知らない方がよかっただろ?」

 哀れむように銀髪は、慰めを欲しているとでも思ったのか頭に手を伸ばしてきた。ぱしんと叩いて沖田はそれを拒絶する。もう何も、誰も信じられそうになかったから。

「教えてくれたことと、助けてくれたことは感謝しまさァ。ありがとうございやした」

 早口でそれだけを口にして逃げるように走り出した。
 しかしさっき銀髪とぶつかったのと同じ角から現れた人影に、すぐにまた足を止める。

「土方さん……」
「……てめ、勝手に、何して」

 さっきの二人組が戻ってきたのかと少し焦ったが、そこにいたのは土方だった。ずっと走って探してくれていたのだろう、荒く肩で息をしてなかなか言葉を紡げずにいる。

 こんなにへとへとになるまで探してくれていたことがすごくうれしかった。なのに、それと同じくらい悲しい気持ちが胸の中を渦巻いているのだ。
 頭に伸びてきた手を両手で捕まえてそっと包み込んだ。この手はこんなに暖かいのに人を殺めるのかと考えたら、ぽろりと涙が一粒零れて頬の上を伝う。

「総悟?」
「俺たちは人を殺すんですか」

 問うと、土方は凍りついた。視線が彷徨い、沖田の背後、銀髪のところで止まる。
 誰に聞いたのか合点がいったのか、土方は考え込むようにして黙っていた。しかしやがて、真剣な眼差し沖田を見下ろして告げる。一番、聞きたくなかった言葉を。


「ああ。俺たちは人を殺す」


 もうわかっていたはずなのに、改めて土方の口から告げられると呼吸の仕方を忘れるくらい強く胸が締め付けられた。どうしての一言は怖くて口にすることができない。たとえどんな理由を告げられたとしても受け入れられる自信がなくて。

 どうしていいのかわからなくて、沖田は今度こそその場から逃げ出した。土方の手を離し、とにかくここでないところに行きたくてがむしゃらに走った。

 自分の知らない自分を知っている人にもう誰も会いたくなかった。何を信じればいいのかもうわからなかった。ただあの部屋の光景に何も感じなかった自分に、とてつもない嫌悪感を抱いた。

 どんなに息を切らして走っても、どこまでいっても知らない道。走ってきたはずの道を振り返っても、知らない道。一刹那の現在という足元の小さな地面だけが今の沖田の全てなのだ。

 助けて。助けて。誰か助けて。ずるずると地面にしゃがみ込み、小さな声で唱えてみる。
 もう無理だ。一人では立つこともできない。こんな時、記憶をなくす前の自分には手を伸ばすことのできる誰かがいたのだろうか。そうでないのなら、どうして自分は今まで立っていられたのだろう。どうすれば、今の自分は立ち上がることができるだろう。そもそもに、立ち上がる必要はあるのだろうか。こんな、何も持たない自分に。


 ――――。


 声が、聞こえた。それも沖田のすぐ側で。
 顔を上げると、そこには人ではない何かがいた。それは沖田を見下ろして、今の沖田には聞くことのできない名前を呼んでいる。それこそが今まで沖田が目指していた目的地たる存在だったのだとすぐに本能で察した。

 これは生き物なのだろうか。まるでゼリーのような、プルプルとした赤い体は人に似た形をしている。しかし凹凸はなく体全体がのっぺりしていて、まるで小さな子供が作った不細工な人形のようだ。

 それは、音もなく長い両手を沖田に向けた。人間なら手に当たるだろうパーツは沖田の腰の刀へと伸ばされる。

「これがほしいの?」

 それは沖田の問いに何の反応も示さなかった。しかし不思議と沖田にはそれの言いたいことが理解できたような気がして、腰から外して刀を前に差し出してやった。

「いいよ。ほしいならあげる。俺はこんなものいらないから」

 人を殺す道具なんていらない。こんなものがあったって誰かを傷つけ自分も傷つくだけだから。そんな悲しい世界、沖田はほしくない。

「刀なんていくらでもあげる。だからお前の持っているものを頂戴。それがないと、俺……不安なんだ」

 この人ならざる存在が何であるのか沖田は知らない。しかし沖田の中の本能や直感ともいうべきものが告げていた。それは沖田と同じ、あるいは限りなくよく似たものであるのだと。そしてそれが持つ、今の沖田に必要なものの存在も。

「お願いだから、俺の記憶、返して」

 不思議と怖くはなかった。ただどうしようもなく寂しくて、悲しかった。




 

07/07/28