声が聞こえる 4


 走り去る沖田の後を土方は追うことができなかった。
 追いついたところで何を言えばいいのかわからない。呼び止めようと開きかけた唇は何の音も発することのできぬまま、走り疲れて荒い呼吸だけを無駄に繰り返す。

「いいのかよ。追わねぇで」
「……追えるかよ」

 塀に背を預け、取り出した煙草に火をつける。深く吸い込むと少しだけ楽になった気がした。こんなものに依存しないと落ち着くことすらできない自分に腹立たしさも覚えるけれど。

「どうして話した」
「本人が望んだんだ。それに、いつまでも隠していていいことでもないだろ」
「わかってんだよ、それくらい」

 それでも教えればショックを受けることがわかっていたから黙っていた。言えずにいた。屯所の中にずっと居さえすれば大丈夫だと思っていた。――外の世界を奪って狭い世界に閉じ込めてしまえば。

 命を奪うということが、どれほど重いことなのか痛いくらいに知っている。そして忘れたからといって背負わずに許される罪でないこともちゃんとわかっている。真選組の中で、そのことを誰よりも強く自覚していたのはおそらく沖田だろう。だからこそたとえ束の間であったとしても、重責から解き放ってやりたかったのだ。

「……いいじゃねぇか、夢見させてやったって」

 痛いのに痛いと弱音を吐くこともせず、ただぐっと歯を食いしばって耐えているばかりの子供に一時の夢を見せることすらも罪だというのか。それともその発想自体が土方のエゴでしかないのだろうか。自分はただあの笑顔を守りたいだけなのに。

「そういう優しさってのもありかもしれないけどよぉ、それならとっとと追いかけてそう話してやれよ。じゃねぇとあいつ、一人ぼっちだぜ」

 銀時の言うことは正しかった。何も言えず押し黙り、苛立ち紛れに煙草を噛み潰す。追いかける勇気はまだない。

 せっかく馴染みかけていたのに、きっと今の沖田は何を信じていいのかわからなくなっているだろう。それどころか裏切られたと思われたって仕方がない。たとえどんな理由があろうと、沖田を傷つけてしまったことにはかわりがないのだ。


「――――っ」

「総悟……?」


 土方はハッと彼方に視線をやった。今、微かにだが沖田の悲鳴のした気がしたのだ。

「おい、今の……」
「そういやぁさっき攘夷の連中に追い掛け回されてたっけなあ」
「なっ……早く言えよそういうことは!」

 沖田が危ない。そう思ったら自然と足が動いていた。へとへとに疲れ切っていたことも、今までの迷いも全て忘れて。

「あ、謝礼はまた今度でいいからよろしくぅ」

 背中に投げかけられたずうずうしい声は無視し、土方は沖田の声のした方へ走り出した。





 それは明らかに敵意であると思う。しかし憎悪とは少し違う気がした。もっと別の、どろどろとした感情が声からは伝わってくる。
 まったく今日は逃げてばかりだ。自分を憎むものから、自分の過去から、自分を知る者から。そして今は謎のゼリー人間から。

 事の成り行きを説明するのは簡単だった。刀をあげたら襲ってきた。以上。簡潔すぎて自分でもわけがわからない。

「うわっ、とぉぉ!?」

 かわし損ねた切っ先がまた鮮血を迸らせる。このまま行くとエロゲーさながらに服が駄目になるんじゃないかと下らない心配をするくらい、全身傷だらけだった。それでも致命傷となるような怪我をしていないのは持ち前の運動神経のよさと、沖田の中に眠る剣士としての勘によるところが大きいだろう。

 とはいえこのままいつまでも逃げ続けることが不可能なのは明らかだった。いくら一つ一つの怪我は大したことがないとはいえ、体力と集中力は確実に奪われていく。

 選ばなければならないと思った。
 ここで楽に殺されるか、逃げずに戦ってみるか。

 死ぬのは怖い。でも生きているのも怖い。過去を知ることも、知らないでいることも本当はどちらも怖いのだ。
 もしも自分が本当に人を殺すだけの生き物だったら? 今よりもずっと一人ぼっちだったら? 思い出さないほうが幸せなくらい、辛いことしかなかったら?

 少し前の自分ならそんなことあるわけないと自信を持つことができただろう。土方が一緒にいてくれたから、そんな風に思えたのだ。しかし土方の手を離してしまった今は孤独と絶望だけしか沖田の心の中には残っていない。

 そうだ、悪いのはみんな土方だ。土方のせいで今、自分はこんなに悩んでいるのだ。そう考えたらだんだん腹が立ってきた。もしここで死んだら呪ってやる。化けて出てやる。毎晩枕元に立って怖がらせてやる。


 でもそれよりもまず先に、とりあえず一発殴りに行こう。


 それが沖田の答えだった。

「おい、ゼリー人間。お前やっぱ刀返せ」

 逃げるのをやめ、前に向き直った。立ち上がる理由を見つけたからか少しだけ元気も出てきた。何も怖いことなんてない。悩みは全部後回しだ。

 ゼリー人間は何もない顔でぎょろりと沖田を睨んだ。刀を持つ手が振り上げられる。沖田は臆することなくそれをじっと見据えていた。
 真っ直ぐ振り下ろされた刀。引き付けて引き付けて、あと少しというギリギリのところでそれを潜り抜けた。

 キン、とアスファルトを打って刀が鳴く。今度は掠り傷一つない。そのまま刀を持った腕に沖田は飛びついた。

「この、返せ! てめっ」

 刀を奪い返そうとぐいぐいと引っ張るがびくともしない。まるで強力接着剤でくっついてでもいるかのようだ。そのうちに沖田は腕の一振りであっさり吹っ飛ばされてしまった。

「うわっ」

 受身を取ることもできず背中から塀に激突する。一瞬ふっと目の前が真っ暗になるがすぐに色を取り戻した。今は気絶なんてしていられる場合ではない。
 動かないと。そう思うのに体は言うことを聞いてくれなかった。頭がくらくらして、また暗闇に落ちていきそうになる。そうこうしている間にも、刀を上段に構えゼリー人間はじりじりと近づいて来ていた。

 総悟。

 不意に、名前を呼ばれた気がした。その声に体中がざわめく。
 そうだ、いつだってあの人はこういうタイミングで現れるんだ。何の脈絡もなくそんな考えが浮かんだ。その頃にはもう、あの煙草臭い腕に抱かれていたのだけれど。

 沖田は抱きしめられたまま地面をごろごろと転がっていた。その間黒い隊服しか見えなかったが、耳は確かに肉を裂く音を聞いていた。それなのに新しい痛みは沖田の感覚に降ってはこない。

「おい、無事か?」

 心配そうな声と共に沖田は解放され、やっとその姿を見て取ることができた。
 ついさっきまであんなに腹を立てていたはずなのに、顔を見た瞬間に全てどうでもよくなってしまった。もっと別の感情ばかりが胸に湧き上がってきて、こんなにも会いたいと思っていた自分を自覚して驚いた。

「土方さん、血が出てる」

 おそらくさっき沖田を庇ったときにできた傷だろう。左肩のところがばっくり斬られていて、だくだくと血が噴き出している。

「たいしたことねぇよ。お前のがボロボロじゃねぇか」
「そんな、土方さんのほうが」
「いや待て、言い合ってる場合じゃなさそうだ。あの明らかに攘夷浪士じゃなさそうな地球外生命体は友達か?」
「もしもあれが友達だとしたら、ちょっと真剣に第二の人生を新しく歩むことを考えまさァ」

 ゼリー人間はのっぺりとした面でこちらを見下ろしていた。だらりと腕は垂れ、刀を振り回す素振りはない。しかし沖田にだけ聞くことのできるらしいその声は相変わらずに同じ人を呼び続けていて、そこにはさっきまでより一層どろどろとした感情が感じられた。

 ここに来て、沖田はようやくゼリー人間の持つ負の感情が何であるかを理解した。これは沖田に対する嫉妬だ。記憶もないくせに沖田総悟として土方に守られている沖田を妬んでいるのだ。記憶だけを持つ、人の形すらしていない己の不幸を嘆いて。

「もしかしたらこいつ、自分が沖田総悟だと思ってるのかも」

 刀をほしがったことも沖田を殺そうとしたことも、それなら全て納得がいった。
 しかしそうなるとどちらが本物なのかという疑問が浮かんだ。何も知らない沖田の形をした自分と、沖田の記憶を持つ異形。条件としては五分で、どちらが本物であってもおかしくないように思えた。

「どういうことだ?」
「あいつの中から俺の、いや、沖田総悟の記憶を感じるんでさァ」

 自分は偽者かもしれないとは流石に怖くて口に出すことはできなかった。しかし土方は沖田の表情に何か感じ取ったのだろう。安心しろと言うように優しく頭を撫でてくれた。それだけで少し気持ちが落ち着いて、なぜこんなにもこの手に安らぎを感じるのか不思議でならなかった。

「馬鹿馬鹿しい。おいコラ、このゼリー野郎。てめぇが沖田総悟だって? 思い違いも甚だしいな。吐き気がするぜ」
「土方さん?」
「お前もよく覚えとけ。俺たちの剣は護りの剣だ。特に総悟、お前の剣は何かを護るため、それも俺が斬っていいと定めた奴しか斬らねぇんだよ」
「護りの剣……」

 そこだけ沖田は口の中で呟いてみた。
 奪い壊すのではなく、守護するための剣。それは沖田の思っていたものとは全く違っていた。もっと尊い、穢れなき優しいもの。

 自分もこの人も、ただの人殺しではなかった。そう思ったら今まで胸につっかえていたものが消えてふっと楽になるのがわかった。

「もっとも、貴様が何だろうと関係ねぇよ。総悟を傷つけた以上は俺の敵だ。叩っ斬る!」

 沖田に触れていた手が離れ、すらりと腰の白刃を抜き放った。
 ゼリー人間に向けられたそれは太陽の光を受け、白い輝きを宿している。なんてきれいなのだろうと素直に思った。

 刹那、不意に沖田は世界が静寂に包まれたかのような錯覚を覚える。しかしすぐに理解する。今まで休むことなく叫び続けていたゼリー人間が、初めて沈黙したのだと。


 ――――――!!


 突然沸き起こった耳をつんざくような音に沖田は耳を塞いだ。それでも音は容赦なく沖田の内側を攻撃し、あまりの音量に激しい眩暈を覚える。

 その音はゼリー人間の泣き声だった。まるでこの世の終わりのような深い絶望。今まで味わったことのないような悲しみが、声を伝って沖田の心にまで響く。伝染した感情が涙となってぼろぼろと沖田の瞳から零れ落ちた。

 ゼリー人間は刀を掲げ、己の体に突き刺した。ずぶずぶと付け根まで深く刺し貫いては抜き、また同じように突き刺し、何度も自分を滅多刺しにした。傷口からは血の代わりに表面と同じ色をしたゲル状の液体がどろどろと溢れ、ゼリー人間の足元に水溜りをつくっていく。

 このとき沖田は初めてゼリー人間がかわいそうだと持った。過去しか持っていない孤独とは一体どんなものだろう。一時も休むことなく呼び続けた愛しい人のことだけを思い存在していたのに、そのたった一つの心の支えさえも自分は別存在であると突きつけられ取り上げられた。だからもう存在していること自体が意味のないことになってしまったのだと、その声は語っていた。

 記憶だけしか持っていない異形と記憶以外の全てを持っている自分。それは五分なんかじゃなくて、沖田のほうがずっとずっと幸せな境遇だったのだ。だって沖田はひとりぼっちなんかじゃなかった。土方が助けてくれた。総悟と名前を呼んでくれた。

 そうして5分もしないうちにゼリー人間は自殺してしまった。
 残ったのは液体だけで、肉片じみた塊は一つもない。まるではじめから液体を型に流し込んで固めただけの、それこそまるでゼリーのように。その不思議な色をした液体の中心に、沖田の刀だけが寂しそうにぽつんと転がっていた。

「……なんだったんだ?」

 唖然として土方が沖田に問いかけてきた。しかし沖田の頬が濡れていたものだからぎょっとして、慌てたように手を伸ばす。

「おい総悟。どっか痛いのか? ってそりゃそうか怪我してるんだもんな」

 土方の手は暖かかった。もうこれ以上心配をかけたくなくて、安心させようと泣き顔のまま無理に笑ってみせる。

「いえ、ちょっとあいつの気持ちが伝染しちゃっただけでさァ」

 涙で声が掠れてしまってあまり上手に話せなかった。それでも今だけは、流すための涙すら持っていなかったゼリー人間のかわりに思う存分泣いてあげようと思う。結局沖田はほしがるものを一つもあげられなかったから。

「あいつも俺と同じであの人を探してたんです」
「あの人?」
「……たぶん、俺の大好きな人」

 ゼリー人間はきっと恋をしていたのだ。だから愛してもらえるように、沖田総悟という人間でありたかったのだと思う。だってあんなにも切なげに呼ぶ声が沖田には聞こえていたのだ。そしてそれは今も、耳を澄ませば聞こえる。

「土方さん、俺の記憶ってどうしてなくなったんですかィ」
「わからねえ。今はまだ調査中だ」
「まだ、声が聞こえるんです」

 残響音などではなく、確かにそれはひとつの方向から聞こえていた。会いたいと、愛されたいと、声を限りに叫んでいる。ただ一人の人の名を。沖田の記憶から抜け落ちてしまった名前を。

「それも一つじゃなくて、たくさん聞こえるんでさァ。あっちの方向の、一箇所に固まっているみたいだ」

 沖田はその方向を指で指し示した。今までは遠すぎて方向まではわからなかったが、そのうちの一体に接触したせいか今ははっきりとわかる。この先に、全ての答えがあるのだという確信があった。

「よし、じゃあ今から行ってみるか」

 ぽんと沖田の頭を撫で土方は歩き出そうとする。沖田は手を伸ばし、その服の袖をぐいと引いた。

「今日はいいです。帰りやしょう?」

 立ち止まり、不審そうに土方は沖田を見下ろす。もう悲しい気持ちは消えていたから、沖田は今度こそにっこりと笑った。

「いいのか?」
「だって、土方さんの怪我が痛そうだから」

 今は記憶を取り戻すことよりも土方の手当てをするほうが沖田にとって大切なのだ。なぜそう思うのかはわからないが、沖田の心の深い部分がそう告げていた。それはたぶん、沖田の過去が育んだ心であるような気がする。

「じゃあ帰るか」
「へい」

 そうして二人は手を繋いで帰り道を歩いた。屯所まではあっという間で、くたくたに疲れていたことも胸のうちにあった不安も、みんな吹っ飛んでしまうくらいに穏やかだった。

 土方がいれば、沖田はもう迷わない気がした。




 

07/08/12